「瀬戸内法行政」史的総括・試論―埋立をめぐる考察を中心にして

(はじめに)

「瀬戸内海環境保全特別措置法(以下「瀬戸内法」と呼ぶ)」の前身である「瀬戸内海環境保全臨時措置法(以下「旧法」と呼ぶ)」が、全会一致の議員立法として成立したのは、一九七三年のことであった。以降、旧法、瀬戸内法、そしてそれらを根拠として制定された瀬戸内海環境保全基本計画(以下「旧・瀬戸内計画」と呼ぶ)、瀬戸内海環境保全審議会(当時)の答申した「埋立の基本方針」の三点セットにより推進されてきた一連の行政施策を「瀬戸内法行政」と呼ぶことにする。 筆者に与えられたテーマはこの三十年を迎えた瀬戸内法行政の通史であるが、旧法制定から旧・瀬戸内計画策定、後継の瀬戸内法制定、そして瀬戸内計画改定に至る経緯の節目、節目に関しては、次章以下で当事者による論述がなされるので、簡単に触れるにとどめ、埋立に関して史的考察を行い、瀬戸内法行政の意義と限界を論じることとする。  

T 瀬戸内法行政概括

1、 瀬戸内法行政の特徴―水環境と環境管理の視点

瀬戸内法行政の特徴は、瀬戸内海を沿岸も含めてトータルな水環境(当時は水環境という概念自体なかったことに要注意)の場と捉えたうえでの総合的な環境管理を図るという先駆的・先見的な志の高い視点である。目指したのは、単にCOD指標で象徴される狭義の水質保全だけではなく、自然海浜、水産資源、藻場・干潟の保全や景観と自然的レクレーション空間の保全・回復、そして生態系の保全をも視野に入れたクロスオーバー的なものであった。明示はしていないものの、そこには水だけが澄んでもしかたがないという住民の本能というか直感が反映されていたし、それは海域の自浄能力の回復、生物多様性や親水性の保全確保、あえていえば循環・共生とか持続性といった今日的な視点も萌芽的に内包していた。また、その目標達成のためには排水規制という従前からの自らのツールの徹底化のみならず、他省庁施策を目標達成のための手段として体系的に統合し、既存制度で対応できないものは瀬戸内法行政のなかで新たな制度として具現化しようとした(その具体的なあらわれの一つは自然海浜保全地区制度であろう)すぐれて環境管理的なものであった。

環境庁は公害の未然防止とすぐれた自然の保護を理念的には車の両輪としてスタートしたが、実務的な観点からいえば、自然保護、大気保全、水質保全等々はそれぞれ根拠法も所管部署も異なり、とくにリンクしているわけではない。また公害諸法に関して言えば環境庁が所管したものは規制法であり、保全のための事業は他省庁の所管であった。

しかし、瀬戸内法行政はとにもかくにも省庁部局の枠を越えて、それらの多くをひとつのパースペクテイブのもとに取り込みえたのである。後年、水質保全局では湖沼水質保全特別措置法(一九八四年)に根拠をもつ湖沼水質保全計画に、そうした理念を取りこむのに成功しているが、これに旧・瀬戸内計画の影響を読むのは容易であろう。

また、激烈な産業公害が一応沈静化し、都市生活型公害と身近な自然の保全・復元が問題になってきた一九八〇年前後から、地方自治体では地域環境管理計画と呼ばれるものをつぎつぎと制定していった。地域環境管理計画は一般的には一連のビジョン、シナリオ、プログラムを提示するものであり、地域総合計画の環境版であり、地域総合計画実施の環境保全面からのガイドライン的な役割を担うものと理解されているが、旧・瀬戸内計画はそうしたものの嚆矢といって過言でなかろう。

また瀬戸内法の対象区域は沿岸府県だけでなく上流府県も含めた流域圏全体であることも先見性のあらわれといえよう。今日では、源流の森の伐採が海の生態系にまで影響を及ぼす可能性が無視しえず、流域全体の保全という視点が重要になってきている。当時瀬戸内法行政にそういう明確な問題意識はなかったにせよ、その萌芽がみられる。

そうした流れの集大成として、一九九三年の環境基本法の制定と翌年の環境基本計画の結実に至るのであるが、それの理念的な源流の一部は瀬戸内法行政にあるというのは身贔屓に過ぎるだろうか。 個々の行政施策も先見的・先駆的なものがいくつかある。

最大のものはCODの量規制である。水質汚濁防止法が同時期改定強化されたとはいえ、依然排水基準強化という濃度規制にとどまったのに対し、旧法ではさらに量規制の観点から事業系CODの負荷総量を半分にするという荒療治を行った。これはのちに東京湾、伊勢湾とあわせての総量規制制度を生み出す原動力となった。 また、赤潮や富栄養化対策については、早くから燐、窒素対策の必要性が指摘されていたにもかかわらず、産業界の抵抗が強く、公的な抑制指導すら拒まれていた中で、いちはやく燐の削減指導規定が盛り込まれたことも特筆されよう(一九九四年には窒素も削減指導対象となった)。湖沼の燐・窒素規制がはじまる以前であり、いかに先駆性に富んだ取り組みをしてきたかは明確であろう。

埋立に関しては一九七三年、公有水面埋立法が改正され埋立免許基準に環境への配慮が明記された。規模の大きい埋立案件については一種の環境アセスメントが必要とされ、環境庁の関与もなされるようになったが、基本的な環境庁のスタンスとしては、環境への影響が軽微かどうかを問題にするだけで、今日でも埋立そのものについてはニュートラルな価値判断しかなしえないのであるが、瀬戸内法行政では少なくとも場としての水環境の保全という観点から、理念的にそれが抑制すべきことを明示していることは特筆されるべきであろう。

2,瀬戸内法行政の史的展開

2−1、旧法制定まで

さて、前節でみたように瀬戸内法行政はすこぶる総合性・先見性に富んだものであったが、細分化された縦割り行政のなかで、それがなぜ可能になったか。その秘密こそが、そのユニークな出自である。

旧法制定に至る具体的過程については前章を参照していただきたいが、住民の声に押されて、自治体連合が政府を押し切って法律を作り、政府にそれを執行する組織である環境庁水質保全局水質規制課瀬戸内海環境対策室(本組織は一九八〇年独立室に昇格、名称も瀬戸内海環境保全室となったが、以降、いずれも「瀬戸内室」と略す。なお、二〇〇一年の中央省庁再編で環境省環境管理局水質保全部閉鎖性海域対策室として再編成された)を作らせたのである。

旧法も瀬戸内法も審議会の設置規定を置いているが、関係自治体の長またはその推薦する者が定員の約半数を占めるなど、中央集権国家日本としてはめずらしい自治体連合主導型の行政としてスタートしたのである。 かくてあまたある環境法制のなかで、唯一地域名を冠した総合的な水環境の保全法が誕生したのであるが、そのことは、瀬戸内海での環境破壊のすさまじさを象徴しているとともに、瀬戸内海が日本の歴史・文化のうえでいかに重要であったかを物語っているし、とりわけ沿岸府県住民にとって瀬戸内海は古来からの精神的な支えであり、誇りであり、住民の紐帯のシンボルであったことを示すものであろう。

2−2、旧法から瀬戸内法へ

旧法は三年間の時限立法であった。この間にCOD 二分の一カットの割り当て、埋立の基本方針の答申がなされた。だが瀬戸内計画の策定は難航し、さらに二年間延長された。そして期限ぎりぎりになってようやく瀬戸内計画の閣議決定がなされた。難航の原因はつまびらかでないが、あれだけ吹き荒れた環境追い風が一九七三年オイルショックを契機に急速に弱まっていったこと、また瀬戸内計画の内容がまえに見たように目標や施策が定量的なものでないことにも関連があるのかもしれない。ただ、永久法としての後継法を政府(環境庁)提案で行うことは約束されていた。

全国を襲った激烈な公害の沈静化とともに、住民の圧力も減少していき、アセス法も結局挫折してしまう時代のなかで、後継法案つくりは難航した。その間の経緯については、参考文献(2)が生々しく伝えてくれる。

後継法の当初案の目玉は第一に水質汚濁防止法の改正と併せ、環境基準にリンクした総量規制、第二に燐等指定物質の削減指導条項、第三に条例による自然海浜保全地区(地区内における行為許可制)制度、第四にタンカー航行規制等油濁防止規定、第五に瀬戸内計画をブレークダウンした府県計画といったものを後継法に導入するというものであった。旧法制定時と異なり、与党、経済官庁、産業界の抵抗は強く、応援団は知事市長会議のみ、旧法制定の立役者であった林自民党瀬戸内海等小委員長は大規模なヘドロ除去の事業法にすべきであるとして袂を分かつなかで、調整が進められた。総量規制は環境基準とリンクさせず、自然海浜保全地区は行為届出制に、油濁防止は努力規定にと一定の後退を余儀なくされつつ、現行の瀬戸内法が成立したのである。

瀬戸内法制定後、今日に至るまで個別埋立案件の調整、燐につづく窒素の削減指導が、各種調査やデータベースの整備と併せて行われてきた。

2−3 知事市長会議と瀬戸内海環境保全協会

知事市長会議は設立後毎年首長が出席しての総会を開催、環境庁と密接な連携のもと新たな活動の方向を模索していったし、自治体の環境部局間の連絡調整機能も果たしてきた。

一九七八年、瀬戸内法制定前夜には知事市長会議主唱のもと、自治体環境部局と各県の漁連や衛生団体とからなる社団法人瀬戸内海環境保全協会(以下単に「協会」と呼ぶ)が発足、数名ながら専従職員も置き、以後普及啓発活動や調査活動を積極的に展開していった。平成元年には産業界からも事業場単位で賛助会員として協会に参画した。近年「行政と市民と企業とのパートナーシップの形成」が重要であるという指摘がなされているが、そうした意味で協会の活動も先駆的な取り組みといえよう。

また、地球環境問題の顕在化とともに、国際的な連携が強く意識されだした。知事市長会議の主唱のもと、環境庁・協会も参画し「世界閉鎖性海域環境保全会議(EMECS)」が一九九〇年神戸で開催され、以降定期的に世界各地で開催されるに至ったことも特筆されよう。

さらに一九九二年には知事市長会議の主唱のもと、協会を事務局とし域内の学識経験者、研究者を結集した「瀬戸内海研究会議」を設立、毎年研究フォーラムを開催するなど、ユニークな活動はいまもつづいている。 かくて、瀬戸内法行政は或る意味では瀬戸内室と知事市長会議、協会が三位一体で進めていくというユニークなものとなっている。

3、瀬戸内法行政の環境保全上の成果

以上述べてきたように、瀬戸内法行政は地方分権を先取りしたかのような地方主導型で、瀬戸内海という場としての水環境保全というビジョンのもとで施策を展開するといった、きわめて先駆的な試みであった。しかし、それが瀬戸内海の水環境保全にどれくらい寄与貢献したかはまた別の問題である。だが、この検証は容易ではない。瀬戸内計画の目標と照らすという手法が使えない。目標自体がもともと定性的なものであり、目標年次とか達成率、進捗率とかの概念がそもそも適用しえないものだからである。

だが、環境の現状と推移を見てみると、つぎのことはいえよう。

まずは水質である。産業界からのCOD発生負荷量は激減。かつての激しい汚濁水域の改善は著しいものがあるが、瀬戸内海全体の環境基準の達成率や湾灘毎のCOD平均値といった推移でみると必ずしも改善されたとはいいがたい。生活系CODの発生負荷低減が著しくないこと、いわゆる内部生産CODといった問題があるのであろう。

赤潮の発生実件数はかつての半分以下に低減している。燐の削減指導などの施策がどのていど効いたのかは赤潮発生機構が明確でないのでわからないが、一定の効果はあったと評価すべきであろう。

また埋立てに関しては明らかに瀬戸内法制定を契機に大きく減少している。ただし社会経済状況の変化もあり、全国データとの比較も困難なので、すべてが瀬戸内法行政の抑止力のせいとは必ずしもいえない。逆に鈍化したとはいえ、まったくストップしたわけでないことをもって瀬戸内法行政の無力さだけをあげつらうのも妥当ではないだろう。

V 瀬戸内法行政の限界、とりわけ埋立をめぐる諸考察

1,瀬戸内法行政の限界

以上概括してきたように、瀬戸内法行政は理念や枠組という観点からは、今日の環境基本法=環境基本計画を先取りしたすぐれて総合的・先見的なものであったし、現実の環境の保全・復元ということに関して一定の効果があったのは事実であろうが、それが他の地域に比べて目を眩ませるほどのものかどうかについては疑問がないわけではない。

また瀬戸内計画は他省庁の施策をも取り込んだ総合的・体系的なものであるが、実際には他省庁が独自に策定した計画や施策を単に寄せ集めて修文しただけで、他省庁が瀬戸内計画に則って行う(と環境庁サイドからは見なしうる)事業についての補助率の嵩上げのような誘導施策は盛り込まれていないし、他省庁も瀬戸内海について法と閣議決定である瀬戸内計画の精神に鑑みて特別の運用や重み付けを行ったとはいえないし、それの担保もフォローもない。

総じて上位・先行計画と称されるものはおおむねそうしたものであるといってしまえばそれまでであるが、例えば同じ環境庁の国立公園行政で、瀬戸内海国立公園の管理について特別の配慮をしたという痕跡はみられない。

歯に衣着せずに言えば、環境行政の進展の中で、富栄養化対策も含めた排水規制に関しては瀬戸内法行政の独自性は希薄なものになってきている。水質保全のみならず、水環境総体の保全が必要だという環境管理の視点も瀬戸内法行政だけにとどまらず広く環境行政内部では共有され、「瀬戸内計画」的な各種の環境管理計画も今日ではごくふつうのものとなってきている(その環境管理計画なるものが、結局は各部局の施策を寄せ集めて修文しただけという致命的な弱点も共有しているといっていいであろう)。

こうした理念的な法や計画が、今日の縦割り行政の仕組みのなかで実効性を持ちうるとすれば、それが時代の流れであり、それに沿った予算要求や施策に傾斜したほうが、予算、組織や権限の維持拡大に有利だという意識を他省庁や自治体の首長ないしは環境以外の他部局が持ったときに限られよう。つまり畢竟は市民・国民の民度によるのである。旧・瀬戸内計画策定の時期には旧法制定の頃の市民住民や自治体の熱気は失われてきたし、今日でも瀬戸内海沿岸住民で瀬戸内法や瀬戸内計画の存在を知るのはごく少数であろう。

つまり瀬戸内法行政はたしかに誇っていい先見性を持った行政だったが、市民運動、住民運動の潮が退くと共に、その先見性からくる展開を支える基盤が弱まっていったのである。

瀬戸内法行政がその出自の特異性から知事市長会議、協会と環境庁が三位一体で進めているという点に関しても、埋立の基本方針を審議する過程でも、埋立原則禁止という当初の「北」の提言に対し、「南」からは大きな抵抗があり、現行のものまでトーンダウンした経緯があるように、自治体間も自治体内部も必ずしも一枚岩でなく、その結果知事市長会議や協会の活動も、だれもが賛同しうる総論レベル的なもので終わってしまっていることも否めない。

2 埋立をめぐる諸問題

2−1 増大する多様な埋立圧力

そうしたなかで残る瀬戸内法行政の最大の実質的な目玉は「埋立の基本方針」であった。「埋立は厳に抑制すべし」という理念を正面から掲げている行政は瀬戸内法行政しかなかったのだが、それ故もっとも苦戦を強いられてきたものである。その限界と矛盾が、社会の変化の中で露呈してきたのが、八十年代から九十年代にかけてであろう。

戦後日本の高度経済成長を牽引してきたコンビナートや鉄鋼に象徴される重厚長大産業は概ね六十年代、つまり法施行前にほぼ埋立立地を終えていたか、駆込みで免許を取得していた。だからこそ「埋立は厳に抑制すべし」という理念がそれなりに機能する程度には、産業界からの埋立圧力も減少しており、排水排気の公害対策が施策の中心となった。ところが八十年代からの産業構造の転換に伴い、高炉の撤退に代表されるような湾岸遊休地の存在が目立つようになるとともに、ウオーターフロントが云々されるようになり、それまでとは異質な埋立圧力が高まっていった。

一つは港湾、空港、都市再開発等の埋立圧力である。また、内陸処分場の不足から、廃棄物の最終処分や建設発生土の処理を海面埋立に求める動きも激しくなったし、この二つはときに相互に補完し、より圧力を強めるものであった。さらには八十年代末期にはリゾート法による沿岸開発の圧力も高まった。一九九一年のいわゆるバブル崩壊後も、景気対策の観点からも大型公共事業(港湾や空港)の開発圧力はさらに強まる一方であった。

こうした多様な埋立圧力の中で、「埋立の基本方針」の前提である「埋立は厳に抑制すべし」という理念を貫徹するのは困難であった。

2−2「埋立の基本方針」による瀬戸内法行政の展開

「埋立の基本方針」は前文で「埋立は厳に抑制すべきであり、やむをえず認める場合の基本方針」であると明記しているが、「やむをえず認める場合」とはなにかについては言及していない。(註)

註:瀬戸内室では、一九八九年にはいわゆるリゾート法のリゾート計画に関連して、個人・法人が占有する別荘・保養所の分譲を目的にする埋立は、国民共有の財産である海を切り売りすることであり、「やむをえず認める場合」に該当しないという見解を明らかにしている。現行公有水面埋立法では事実上私人への埋立免許はおりないが、公共団体が埋立し、それを私人に分譲することは容認しており、リゾートブームのなかでそういう計画が出現してきたので、それに対する歯止めをかけたのである。 ところで個別埋立の社会的必要性に関しては、第一義的には港湾ならば運輸省(現・国土交通省)―自治体の港湾部局というように縦割り体制の中で、他部局が判断主体になっている。そうしたなかでは、よほど著名な自然海浜や藻場干潟の大規模な破壊を伴うものでなければ、「厳に抑制すべき」という理念だけを根拠にミテイゲーション概念(註)で言う「回避」はおろか「低減」せしめることも容易でなかったことは想像に難くない。しかし、この理念があればこそ、人工海浜や藻場・干潟の代償整備、汚水の高度処理、緑地の整備、緩傾斜護岸工法の採用等、他の海域の類似事例にくらべて、より環境保全と親水性の確保に配慮されたものにしてきたのである。

註:ミテイゲーションは米国で生まれた概念である。開発による環境影響をトータルでゼロにする(No Net Loss)という原則のもとに、「回避」(開発の断念や開発目的の他の手段による代替)、「低減」(開発規模の縮小や位置の移動により環境影響を極力低減すること)、「代償」(「低減」の有無にかかわらず、開発によって生じる環境面でのマイナスを代償する措置を講じる)という三つの手段があり、優先検討順位は回避→低減→代償の順であるとする。日本でミテイゲーションという場合、No Net Loss原則は無視されがちである。ミテイゲーションのこの概念にはさまざまな問題点があるが、ここでは言及しない。筆者らの参考文献(八)を参照されたい。 もちろん、公表される以前の構想段階での環境部局なり環境庁との事前調整・協議のなかで、「回避」や「低減」(ここでは環境影響を低減させるための規模の縮小や位置の移動をいい、No Net Loss原則は問わない)されたものもないわけではない。しかし、計画が公表されて以降のそれはきわめて稀である。以下、そうした事例を含めて、瀬戸内海での埋立の推移を追うこととする。

一九八四年には愛媛県今治港富田地区、いわゆる織田が浜で大規模な港湾整備のための埋立計画が浮上し、大きな反対運動が起きた。公有水面埋立法以前に港湾計画の変更が必要となるので、港湾計画変更が地方港湾審議会を経て港湾審議会に諮られたが、その場で環境庁は異議を唱え、差し戻しとなったはじめての事例である。そのご規模の縮小と位置の移動で環境庁との調整を了し、港湾計画を改定、公有水面埋立免許の認可を得て工事に着工したが反対運動はおさまらず、争訟となった。現在埋立は終了し供用開始されている。環境庁は反対派住民から非難されたが、当時の(今日でもおおむね踏襲されている)行政システムのなかでは、環境庁はぎりぎりの抵抗を示したものといっていいであろう。

一九八五年には神戸市のポートアイランド二期の埋立計画に関して、まったく同様の経過で異議を唱え差し戻しになった。最後は小規模な縮小のみで環境庁は矛を収め、港湾計画変更、埋立免許認可を経て、すでに工事は終了、供用開始されているが、反対運動も起きず、マスコミもまったく関心を示さないなかでの異議は異例のものであった。

同じ年、フェニックス(尼崎沖)の港湾計画が決定。一九八七年には埋立認可がなされた。フェニックス計画はそのご泉大津沖、神戸沖と認められた。廃棄物処理の逼迫した状態では容認するしかなかったのである。 その一九八七年には関西空港と前島(いわゆる「臨空タウン」)の埋立免許の認可がおりた。関西空港に関しては旧法制定の前後からさまざまな動きがあり、すぐれて政治的な国家プロジェクトということから、伊丹空港の廃港を暗黙の了解とすることで環境庁も容認せざるをえなかったし、前島は大阪府が計画したその一連の流れのものであり、これも容認した。結果的には伊丹空港は存続のままで、空港島では緩傾斜護岸、前島では人工海浜の採用や排水の高度処理という「代償」(さらには空港会社での出向ポストの確保)で、決着させられた。前島は結局の所、膨大な赤字を抱えて現在も大半が遊休地のままであり、このプロジェクトで背後地や島の採石、土砂取り、海砂採取等環境保全面からはさまざまな負の遺産を残した。さらに、一九九九年にはいわゆる関空二期も埋立て認可がなされている。

一方、八十年代半ばには、すでに神戸市は人工島による神戸空港設置の運動をはじめていた。環境庁との事前調整は一切なく、瀬戸内法や「埋立の基本方針」を無視した形で政治的に動いたのである(当初、関西空港は神戸沖案が有力であった。神戸市が猛反対した結果、泉州沖に決まり、そのご神戸市が方針転換した経緯がある)。伊丹空港存続、関西空港二期とあるなかで、神戸空港まで容認すれば「埋立の基本方針」ひいては瀬戸内法行政そのものが無に帰するという危機感から、環境庁は政治的な圧力に抵抗しつづけた。結局、阪神大震災がきっかけでそれに屈し、いくばくかの「代償」と引き換えにゴーサインを出した。そのご地元で猛烈な反対運動が起きたのは周知の通りであるが、それは環境保全という観点よりも、赤字必至であり、莫大な借金を抱えてまでつくる意味があるのかという公共事業そのものの意味を問い、住民投票条例制定を求めたものであった。この時点では「埋立の基本方針」との整合性は政治的に決着が着けられており、環境庁はもはや動けず、一九九九年に埋立免許が認可され、工事に着工した。

最後に特異なケースとして和歌山下津港沖の埋立ての経緯に触れておこう。一九九七年、和歌山県は下津港沖の大規模埋め立てを伴う港湾計画変更を発表した。市民住民には寝耳に水であり、瀬戸内海国立公園に隣接する水域で、公園内の展望地から指呼の距離にあるため、ただちに激しい反対運動がはじまった。

本件は港湾部局が独自に計画し、環境部局との調整は不良に終わったままで、また環境部局を通して情報をえた環境庁も難色を示していたものであるが、港湾部局が強引に知事の了承を取り付けてほとんど根回しもせずに地方港湾審議会まで独走したものである。そして、一九九七年国の港湾審議会に諮られた。その場において環境庁は本案は景観に与える影響は大きく、瀬戸内海環境保全特別措置法に違背するとの見解を示した。港湾計画の変更は下津港沖地区にかかるもののみでなかったため、結局「原案のとおり、おおむね適当である。但し、雑賀崎前面の埋立計画については、瀬戸内海国立公園の特別地域に隣接していることから、景観の保全についてさらに検討されたい」という答申がだされた。県は一九九八年度に入って、学識者による「和歌山県下津港沖地区景観検討委員会」を設置、その意見を踏まえて大幅に埋立て面積を縮小し、同委員会に示し、大方の委員は了承した。

反対運動がつづくなか、本案で国の港湾審議会に再度諮られ、今回は環境庁も異議を唱えず、「原案のとおり適当である。なお、事業の実施にあたっては、緑地の設計、護岸の構造等について検討し、修景効果に配慮するとともに、地元関係者の理解が得られるよう、さらに努められたい」との答申が出され、港湾計画は改定され、アセス調査も開始されようとした。そうしたなか、一九九九年度に入り、市長が慎重姿勢への転換を表明。そのご知事選挙があり、誕生した新知事はその後アセス調査の執行停止を表明、ついに事実上の凍結宣言を行ったのである。

問題は市長、知事がなぜ方針変更を余儀なくされたかである。それは地元住民の反対運動に加えて、全国的に大型公共事業反対運動が各地で多発し、世論もそれを支持する側に回ったということ、そしてもはや自治体においても、過大な需要予測による大型公共投資の財政負担に耐えられないことが明確になってきたことがあげられる。

2―3 「埋立の基本方針」の限界

さて、環境庁が港湾審の場で異議を唱えて港湾計画の改定自体が差し戻されたのは、筆者の知る限り過去三回で、きわめて異例のことである。もちろん、従来の日本型ルールでの事前調整を行ってこなかったケース自体がまれなのであるが、この異議を唱えた三回すべてが瀬戸内海がらみである(織田ケ浜、ポートアイランド二期、下津港)。このことは瀬戸内法や「埋立の基本方針」の存在なしには考えられないであろう。

しかし、同時に「埋立の基本方針」があっても、なおミテイゲーション概念で言う「回避」でなく、「低減」どまり(それもNo Net Loss原則抜きの)なのかという疑念も同時に湧いてくるし、筆者も関わった下津港沖の案件を通して、瀬戸内法行政のみならず、環境庁、或いは日本型行政システムの問題点も見えてくる。 ひとつは環境庁、現・環境省の権原の弱さである。「埋立の基本方針」は法に一応根拠条文を持っているものの、本件に関しては「基本方針」の本文に直接違背するというよりは、「厳に抑制すべし」という前文の精神に反するものであるというしかなく、法文上の権原とはいいがたい。(なお、某氏によると「埋立は厳に抑制すべきであり、やむをえず認める場合の基本方針である」と明言したこの前文は、環境庁が最終段階でこっそりすべりこませ、各省も本文でないためうっかり見過ごしたのだという。もしそうだとすると、「やむをえず認める場合」とはなにかを具体的に明示することは困難であったろう)。

もうひとつは公益上の必要性の判断主体の問題である。常識的には妥当と思えない過大な需要予測に基づく開発であったとしても、需要予測の妥当性、開発の必要性を判断するのは環境庁(現・環境省)でなく、港湾整備の場合は運輸省であるし、自治体においては港湾部局であり、最終的には首長である。

したがって、公的な場で環境庁が発言できるのは環境保全上の観点からでしかないことが挙げられる。「当該事業は港湾整備、地域振興の観点から必要かもしれないが、或いは必要だとしても、環境保全上の観点からは到底容認しえない」という見解を示すには、国立公園の中核部のような、それなりの法文上の権原を必要とするのである。したがって、港湾審議会でも環境庁は環境保全、景観保全の観点からのみでしか異議を唱えられなかった。和歌山下津港沖のケースにおいても景観委員会の所掌範囲は景観保全の観点からに限られたのである。埋立の必要性ないし地元住民との合意形成の方法等についての発言は「本委員会の権限の範囲外ではあろうが」とか「本来は港湾審議会の場で議論されるべきであろうが」という前置きが必要とされた。

また、審議会や委員会の人選と運営の問題がある。メンバーを選ぶのは計画・事業主体である以上、その大半は自分たちに都合のいい学識者を選ぶであろうし、さらには運営の仕方も事務局の出した資料や原案に対してコメントを述べるというやりかたで、委員会自体で議論して独自の案を出すという仕組みに通常なっていないという問題もある。

そういう意味では和歌山下津港沖の件に関して、結局の所勝負を決したのは、環境行政でなく、首長であり、その判断を左右したのは地元住民の反対運動に象徴される市民住民の動向であり、世論であったといっていいであろうし、そのこと自体は正当であるが、従来の公共事業の多くは形式はともかく実質としてそういう風になっていないところに問題がある。ここに住民投票が各地で提起される根源がある。

W 瀬戸内法行政の転機―瀬戸内計画全面改定

1 公共事業批判の高まり

九十年代後半は公共事業批判の波がかつてなく高まった時期でもある。それまでにも公共事業批判がないわけではなかった。中海干拓、長良川河口堰など、激しい公共事業批判が環境保全を旗印に繰り広げられたが、それらはいずれも散発的なものであった。

しかし、バブル崩壊後の長引く景気低迷のなかで、九十年代後半に至って、大型公共事業批判が同時多発的に、そして相互に連携をとりながら展開され、その波は今日もなおつづいている。一九九七年のアセス法の成立もそれとは無縁ではないだろう。

代表的な公共事業批判としては諫早湾や中海の干拓、藤前干潟や三番瀬の埋立、愛知万博海上の森、川辺川ダム、びわこ空港などが挙げられるし、瀬戸内海では神戸空港、吉野川第十可動堰、和歌山下津港沖埋立などが地元のみならず全国的に大きな問題になった。

こうした公共事業批判は単に環境保全の観点からの反対だけでなく、従来型の意志決定システムへの異議申し立てであり、またいわゆる土建屋国家といわれるような赤字国債・地方債を発行しつづけて空前の借金まみれになった日本の中央・地方政府への不信と将来への不安が背景にあると筆者には思える。

瀬戸内室は、こうした公共事業の埋立圧力に対し、それまで「埋立は厳に抑制すべきである」という理念のもとで、一定の抵抗を示しつつ結果的には後退を余儀なくされてきたことや、世間を騒がせた豊島の産廃や海砂採取問題に対しても瀬戸内法行政としてはなんらの積極的な対応もとりえないことに対して焦燥感を抱き、積極的な対応策を模索してきた。そして一九九七年九月に瀬戸内海環境保全審議会に「瀬戸内海における新たな環境保全・創造政策のあり方について」諮問した。

2 瀬戸内計画の改定

一九九七年の諮問を受けて瀬戸内海環境保全審議会は審議を開始、二〇〇〇年一二月に答申、それに基づき同年中に閣議決定、告示が行われた。

「あり方について」の審議の過程で特徴的なことは、情報公開の徹底と住民からの広範な意見聴取であろう。このことは、各地の公共事業や埋立への反対の動きが広がるなかで、住民の声を背景に、埋立のさらなる抑制、藻場干潟の保全と海砂採取への厳しい対応、そしてこれらに対しての個別の開発に際しても地域住民の意思を反映すべきことをこの答申のなかに盛り込ませ、瀬戸内計画や「埋立の基本方針」の見直しにつなげていこうという瀬戸内室の意志のあらわれとみることができる。

内容的には環境保全だけでなく環境創造・復元への強い意欲がみてとれる。具体的にはミテイゲーション概念における「代償」をより大胆にとりいれようとした。埋立は厳に抑制すべきであるが、どうしても認めざるをえない場合には、失われる藻場干潟海浜以上の人工藻場干潟海浜の設置を義務づけたり、すでに人工海岸化しているところの環境創造・復元をこんごの方向として打ち出そうとした。

しかし、この戦略は必ずしも受け入れられたわけではなかった。パブリックコメントで各地の反対運動をしている人たちからは、埋立原則禁止こそを打ち出すべきだという意見が多く見られた。

これはひとつには当時話題になっていた名古屋の藤前干潟の影響があろう。藤前干潟では、代償措置として埋立地の前面に広い人工干潟を造成することで、埋立を推進しようとしたが、現在の干潟を守ることこそが大事であるとして活発な反対運動が展開されていた。一九九八年十二月、環境庁は埋立は認めがたいとの環境庁検討会の中間とりまとめを公表し、名古屋市に埋立の断念を迫り、一九九九年名古屋市はついに埋立免許の認可申請を取り下げるに至った。このことは環境庁の英断として世間に歓迎されたのである。

藤前の場合はごみ処理のための埋立であり、ごみ処理は新・環境省の所掌事務になることがすでに決まっていたし、各省とも直接ぶつかるわけではなかったために環境庁も強く出られたという背景があるにせよ、こうしたなかで代償ミテイゲーションはごまかし、免罪符ではないかという反発を招いたのであろう。

審議会もこうした世間の動きの中でかなり強い発言が続出した。しかし、瀬戸内計画は閣議決定であり、各省の合意が必要である。各省が到底受け入れがたいような答申であれば、閣議決定できないことになる。こうした狭間での苦悩が随所にみてとれる。

新計画の随所に見られる特徴は過去の開発のそれも含めて代償ミテイゲーションの重要性、海砂採取への環境保全の観点からの留意事項と要請、そして地域住民の参加とその意向の反映を強調しているという点であろう。

全体に旧計画にくらべ、より環境保全と創造・復元に傾斜していることが窺えるが、なお微温的で、今日の新たな「環境の波」からは物足りないし、V―1で指摘した弱点はそのままであるが、閣議で各省の合意をえなければ制定できなかったことを考えれば、これが精一杯であろうか。

なお、新計画に関する答申には前文がある。埋立と海砂採取に関して、本文では各省の抵抗のもと、書き得なかったと思われるより厳しい表現が示されており、「埋立の基本方針」の前文の例にならおうとしたものであろう。

これを契機に「埋立の基本方針」、さらには瀬戸内法自体への改定に進みうるかが、新瀬戸内法行政の課題になろう。

(さいごに)

二〇〇〇年一二月一九日新計画が閣議決定され、それが終わるのを見届けるかのように翌一月六日、環境庁は環境省として再編され、瀬戸内室の名は消え、新たに誕生した閉鎖性海域対策室が瀬戸内法行政を引継ぐことになった。瀬戸内海環境保全審議会も中央環境審議会に統合された。これが「環境の波」にもかかわらず瀬戸内法行政にマイナスに働くことがないことを切に望む。

瀬戸内法行政は地方自治体が国に作らせた行政であり、他省庁の行政をもひとつのビジョンのなかにとりこんだユニークな行政であったが、今日に至るも省庁縦割り行政の限界を打破し得なかった。各省庁を瀬戸内海環境保全の観点から横断的にフォローアップする体制が考えられなければならないが、今日の霞ヶ関ルールではなお困難であろう。

それは同時に自治体内部の環境部局と他部局の関係の問題でもあり、自治体間のいわば南北格差の問題でもある。

しかし、こうした閉塞状況は大きく変わる可能性が時代とともに出現し、それが新・瀬戸内計画にも反映されたというのが筆者の評価である。

これまでの瀬戸内法行政では住民はあくまで啓蒙の対象であり、行政に理解と協力を得る存在でしかなかった。しかし、新・瀬戸内計画では埋立等に当たっては地域住民の意見が適切に反映されるよう努める旨の規定や環境保全施策の策定に当たっての住民意見の反映の規定が付け加えられたほか、処処に住民参加を意味する文言も散見される。つまり住民が環境保全の担い手として参加が求められているのである。また、そうした観点からは都道府県や政令指定都市だけでなく、基礎自治体の瀬戸内法行政に占める役割はこんご大きなものにしていく必要があろう。

もちろん、新・瀬戸内計画において、それ以上具体的に規定されているわけでなく、各省との関係もあって、弱弱しい控えめな表現の、単なる理念であって、このままでは力を発揮しえない。

しかし、こうした文言が新・瀬戸内計画に盛り込まれたことの意味は決して小さくない。なぜならば、地域の住民が自ら動こうとするとき、この文言はそれが閣議決定であるが故に、霞ヶ関ルールを打ち破るきわめて大きな武器になりうるかもしれないからである。そのとき、はじめて「瀬戸内計画」という仏に魂が入ったということになろう。

本稿は瀬戸内法三十年を迎え、瀬戸内法行政の特異性と先見性とはなんだったのか、そしてその成果と限界は奈辺にあったのかを、かつて瀬戸内法行政の当事者であった筆者なりに(筆者は一九八八年から一九九〇年まで環境庁水質保全局瀬戸内海環境保全室長の席にあった)検証しようとしたものである。本稿が、新・瀬戸内法行政の可能性と方向性の模索の一助になれば望外の幸せである。

参考文献

  1. 川名英之:「ドキュメント日本の公害 第五巻 総合開発」、緑風出版、一九九〇。
  2. 本シリーズは全一三巻からなる大著で、随所に瀬戸内海関係の記述があるが、本巻の第三―五章に、旧法制定前後のまとまった記述がある。
  3. 二瓶博:「瀬戸内海後継法成立までの顛末記―ある行政官の手記―」、瀬戸内海環境保全協会、一九八四。
  4. 著者は瀬戸内法制定時の環境庁水質保全局長で、各省調整の陣頭指揮をとった。情報公開が叫ばれても、実際に法案の策定過程が明るみにでることはめったにない。こういうドキュメントこそがこんご必要である。
  5. 「瀬戸内海の環境保全―資料集―」瀬戸内海環境保全協会。
  6. 協会では瀬戸内海の水環境と自然環境の保全に関連する多方面に渡る公的な統計資料やデータなどを収録した資料集を毎年更新・発行しており、貴重なデータブック・ハンドブックとなっている。
  7. 「協会二十年 歴史を歩む」瀬戸内海環境保全協会、一九九六。
  8. 久野武「瀬戸内海環境保全基本計画―十年の総括」、瀬戸内海科学第一巻第一号、一九八九。
  9. 「瀬戸内海環境情報調査報告書」瀬戸内海環境保全協会。一九九七。未公表。
  10. 文献3. のリニューアルのための環境庁委託調査で、執筆は筆者が行った。この報告書の提言を踏まえて文献3. はリニューアルされた。
  11. 久野武「場としての水環境の捉え方―瀬戸内法行政の検証」、資源環境対策三四巻三号。一九九八。
  12. 本報告書の前半三分の一は本論文をベースにしたものである。
  13. 中島慶二、久野武「日本の行政システムにおけるミテイゲーション」。二〇〇〇。
  14. 「日本におけるミテイゲーションバンキングのフィジビリテイに関する研究」(平成一一年度科研費報告書 研究代表者森本幸裕)に収録。未公表。
    ミテイゲーションと自然公園地域、瀬戸内法適用海域といわゆる「白地地域」における「回避」「低減」事例を論じた。

※本稿は平成一二年度国立環境研究所委託業務報告書「瀬戸内海環境保全行政の史的総括と今後の発展のためのモニタリングとデータベース整備のあり方に関する研究」(二〇〇一年三月)の、約半分をカットし、残余を全面改稿、補筆したものである。