鉱物編 − 駄稿小括

駄稿小括

筆者は80年代半ばから狂ったように趣味の鉱物編を中心に駄文を書き散らしてきたが、このほどその一覧と解題をHP上で行うこととした。なんと書くも書いたり鉱物編駄文は百編を越していた。これらは常人には理解しがたいマニアックなものであるが、それ以外にもエッセイならぬ似非異も数十編書いており、よくこれだけ愚にもつかぬものを書いてきたと自分でもあきれている。また、このうち何らかの形で活字になったものはせいぜい六十編で、半分以上は数人ないし十数人の友人にプリントで或いはファイルで配布しているだけの<手記>であるから、まさに<物好き>としかいいようがない。

若かりし日の筆のすさびで「蒼嶺」なる怪文を書いたのを唯一の例外として、駄文書きに本格的に手を染めたのは1984年鹿児島に転勤してからである。ひとつは連日深夜までの残業が常態となっていた霞が関時代と違い、時間的余裕ができたからである。もちろんそれだけではない。それに先行する下地ができていたのだ。筆者の趣味は鉱物の収集であるが、単なる「石集め」に終わっていて、専門的な鉱物学的知見をなんら持っているわけでないので、お堅い学術的な記載、言い替えるとオタクっぽいマニアックな記事しか載せない「地学研究」などのアマチュア鉱物界のメデイアに到底発表できるようなものは書けないと諦めていたのだが、それを変えたのが「京都地学会誌」の大食飲石集居士の連載である。筆者の畏友がペンネームでお遊び記事、オフザケ記事の連載をはじめ、それに刺激を受けてこういうお遊びならしてみたいと思いだしたのである。そして'84/9に「鉱物冗話」と題するオフザケ記事を越喜来翔名義で「京都地学会誌」に投稿し採用された。どんな駄文であっても、自分の原稿が活字になり人の目に触れるのはうれしい。そこで以後も、鉱物冗話シリーズとして同誌に発表しだした。

<註> 京都地学会誌は年一回の発行で、第39号('85/1)を皮切りに毎号のように本シリーズを寄稿したのだが、惜しくも49号('94/5)でもって終刊。京都地学会自体も約50年でその歴史を閉じた。また、皮肉なことに大食飲石集居士名義の記事は故益富先生の逆鱗に触れ、筆者のデビューと入れ替えに姿を消した。もっともかれはその後筆名を変え、別のマニア雑誌で相変わらずの健筆を奮っている。

さて、東京時代は足がないこともあって採集に行くことも少なかったが、鹿児島では丸野伊勢夫さんという足付きの相棒ができ、県内の休廃止鉱山などを随分とまわった。いくつかの発見もあり、故益富先生より「地学研究」に産地案内などを書くよう慫慂された。そして丸野さんと連名の形式で書いたのが「南国弥次喜多道中記」シリーズで、その1は'85/9に脱稿した。鹿児島を去ったあとも、鹿児島の鉱物には思い入れがあり、しばしば採集に訪れ、その結果などを同シリーズとして記載している。

筆者は鹿児島の鉱物についていろんな情報を入手しやすい立場にあったので、アマチュアなりにきちんととりまとめをしようという大望を抱き、「鹿児島県鉱物略記」と題する手書きの試稿を86年秋に作成し、関係者数名に配布した。そのリアクションはショックなもので、内容へのコメントでなく、「悪筆で読めない」というものだった。そこで一念発起、'86/12、浄書用に大枚をはたいてワープロ(文豪ミニ7E)を買い、生まれてはじめてキーボートとやらに手を触れたのである。そして「鹿児島県鉱物略記」シリーズとして何人かの石師石友に配布した。このシリーズ中の「略記」と「別巻」は私家本といえるほどのボリュームのものになった。

'87/7、東京霞ヶ関に転勤になった。

鹿児島の3年余りの生活は石以外にも公私とも非常に印象深いものがあり、その記録とくに県庁勤めのそれを「私の鹿児島物語」として私家本としてまとめることにした。当初本庁や県庁の仲のいい同僚たちに配布するつもりで、東京転勤後しばらくして書き始めたのだが、筆はすべりにすべり、とても幅広く配布できるような代物でなくなってしまった。それはともあれ87年暮れに完成した。

霞が関では水質保全局の三つの課室に勤務したのだが、役所のPRのような記事だけでなく、エッセイのようなものもいくつかのつきあいのできた専門誌・業界誌から頼まれた。「瀬戸内海科学(季刊)」「浄化槽(月刊)」「コア(月刊)」に何編かのエッセイというより似非異というべきオフザケ記事を載せた。とくに「コア」の「雑考」シリーズは気に入っていたのだけどあとが続かなかった。

さて、東京に来てから鉱物採集の方はしばらく泣かず飛ばずで、鹿児島モノなどを書いていたが、それも一段落したので、'88/5に新シリーズとして「鉱物冗報」を考えついた。第一弾として昔から思い入れの深い岩手県崎浜のことを書き数人の石師石友に配布したのであるが、当時「地学研究」の編集をしていた高田雅介兄が痛くこれを気に入り、「地学研究」に「いとしのピーシー」として載せるよう取り計らってくれた。のちにこの産地を訪問したところ、筆者の記事が産地の荒廃に大きく手を貸してしまったことを知り、いささか胸が痛んだ。

東京転勤後、鉱物同志会に入会した。やがてそこで友人ができ、90年のゴールデンウィークを皮切りに四人組、新四人組、五人組などと称する採集グループができた。別に頼まれたわけではないが、その紀行文を書いたところ仲間うちでは好評だったところから、以降今日にいたるまで採集に行く度に「余人組・誤認組通信」シリーズだとか「老徒流/屁酊乱 鉱物採集の旅」シリーズだとか称する紀行文を書き、同行者や少数の友人に配布することにしている。ただし、筆者の紀行文は採集の雰囲気を面白おかしく伝えることだけに専念しているので、ガイドとしての用はまったく果たさないことを付記しておく。

その鉱物同志会の機関誌が「水晶」である。年1回の発行となっているが遅れ気味である。これに四人組・五人組の採集紀行(手記)のいくつかを転載したり、「コレクター学入門序説」シリーズのようなオフザケ記事などを書いていた。

さて、水質保全局には通算四年半いたが、最後一年がかりで「読むラベル」を作成した。筆者のベストコレクションについて解説した私家本である。

'92/1、つくばの国立環境研究所に転勤した。通勤苦はあるものの、こんどは個室だし、それに専用のパソコンもあるので、ここでワープロソフト「一太郎」を練習。紀行文などもできるだけこれを使ってつくばで作成するようにした。税金泥棒との批判は甘受するが、官官接待に溺れるよりは罪は軽かろう。

'93/3、鉱物の恩師益富壽之助先生が亡くなられた。先生には三十五年以上にわたってご厚誼を賜っており、それを回想した「転がる石のように ― Like a Rolling Stone」を執筆。これはのちに短縮して「石に立つ矢 ― 益富先生追悼文集」に寄稿した。また、「水晶」誌上でも先生のお好きな奇石にちなんで、「玄能石異聞」「雄黄異聞」の二編を先生に捧げた。

つくばの研究所には憧れのX線回折装置があり、幸いこれを管理しているのは同好の瀬山春彦博士だった。そこで93年夏まえ頃から瀬山氏の指導でX線回折装置を用いて鉱物の同定をいくつか試み、その結果を「Xの悲喜劇」シリーズとして綴ったのだが、ちょうどその頃高田雅介兄が季刊で鉱物マニア向けのミニコミ「ペグマタイト」の発刊を開始したので、改稿して同じタイトルで寄稿した。

'93/10、アマチュア鉱物界最後の巨人櫻井欽一先生が益富先生のあとを追うように逝去された。櫻井先生とも三十年からの恩義因縁がある。先生を追悼して短いが「忠臣蔵と櫻井欽一先生」を執筆。先生も筆者も熱烈な吉良フアンだったのである。これはのちに「櫻井先生追悼文集」(無名会)に収録された。

結局、つくばの研究所には二年半いた。「国環研ニュース」の巻頭言を三回書かされたが、紀行文よりはるかに短いものなのに執筆に苦労した。

つくば最後の半年になって少数の友人向けに読書メモを月一回作成しだした。手記「ランドクツンドク」シリーズがそれであるが、突如のハワイ転勤で中断、そのごも断続的に書いたが、近年は途絶えている。

'94/8、ハワイの東西センターという研究所に客員研究員として赴任。英語もしゃべれず研究経験もないなかの悲惨な単身赴任である。つくばで愛用していたエプソンの他文豪ミニ7Eを文豪NOTEに買い替えハワイに持ち込む。

ハワイに行ってもまともな研究などできようもなく、仕方なく「ハワイ通信」シリーズなる駄文書きで無聊を囲ったが、本庁やつくばの連中には受けたようで、帰国後改稿して「怪騒のハワイ」として月刊コアに連載した。最初はいやがっていたハワイであるが、英語はしゃべれないながら後半はハワイ大好き人間となってハワイ生活を満喫した。

ところでハワイ赴任直前、採集グループ五人組は年輩組と若者組に分裂した。気質の違いであろう。筆者がハワイへ行ったあとも年輩デュオ(渡辺氏、加藤氏)は月二回程度の採集を続行。紀行文書きは加藤氏に引き継がれ、その成果は逐一ハワイに届けられた。

'95/4、帰国し、所沢の環境研修センターに着任した。ハワイで書いた「わが<研究>の記録」や未定稿論文を(原稿料稼ぎの意味もあって)アレンジし、数少ない現役時代の環境小論に仕立て上げたが、さらにハワイの鉱物についての駄文も書いた。

一方鉱物採集の方も渡辺、加藤氏の驥尾にくっついて活動再開。老徒流/屁酊乱/吐痢汚(ロートル・ベテラントリオ)である。紀行文書きは加藤氏と筆者がそれぞれ書いており、比較対象すると面白い。

そして96年にはついに29年間の役人生活をリタイアし、関西は三田へ移った。

渡辺、加藤氏と地理的に離れてしまったため、かれらと行動をともにするのは年一回のGWツアーだけになり、あとは月一ペースの単独行になった。筆者の場合、紀行文書きの最大の目的は同行者に読ませることなので、紀行文書きはめっきり減った。また職務上のつきあいでエッセイを頼まれることもほとんどなくなったので、駄文書きのペースも落ちた。その代わり、毎月の環境漫才のシナリオ書きに時間がとられる昨今である。

現在用いているワープロソフトはワードである。三田へ来るまでのそれは一太郎であったり、古くは互換不能のワープロ専用機だったので、すべてをHP上に載せるのは不可能であるが、変換可能なものはおいおい発表していきたい。

なお、本HPで公開するのは原稿ファイルであり、発表時には図表や写真付のものが多いが、基本的には本文のみである。しかも本文も、いくつもバージョンがあるものがあり、既発表のものはどのバージョンのものかはっきりしない場合があるし、ゲラで手直しした場合もあるので、必ずしも既発表のものと一字一句同じでないことがあるのを、了承されたい。また発表時縦書き、二段組のものがあるが、原稿ファイルはすべて横書き、一段組である。

最後に、鉱物マニアのHPも現在ではかなりあり、カラー写真を多用したカラフルなものばかりである。筆者はHPも学生につくってもらわねばならないほどのデジタル音痴であるので、確約はできないが、将来は写真なども掲載したいと思っている。