鉱物編 − 鉱物関連駄稿一覧、解題

杜の都に石の華 ― 仙台採集紀行

 11月3日は文化の日。文化の香り高い杜の都仙台に行こうという話が持ち上がった。素晴らしい菫青石が仙台近くで採集できるという話をK老がどこからか聞きつけ(じつは判っている。先日わが家に某有名漫画家の色紙をもってきてくれて愚息を感激させた漫画家のタマゴI氏なのである)、みなを煽ったのである。 前夜、メンバーが続々とわが家に集結。全員揃ったところで、お土産の交換会。筆者は秘蔵の石塚峠の満礬ざくろ石と前日九州の藤本氏より送られてきた阿蘇の角閃石、輝石をみなに提供。また、それとは別にM氏が旧余人組のS氏からの各自へのブラジル土産をことづかってきていて、それを配分。筆者には素晴らしい貴電気石とクリソベリルで大感激。いい年こいてテーブル上いっぱいに石を並べて深夜キャッキャやっているわれわれに家人や愚息はあきれ顔。 一箇所だけでは寂しい。もう一箇所どこかへ寄ろうという話がでて、三滝の菱沸石と郷六の紫色の高温石英に決定。いずれもK氏が案内できるという。  3日に日付はとうに変わっていて、さあ出発である。

三滝に着いたのは早朝6時、筆者は地図を持たず、途中眠っていたので、ここがそもそも仙台のどの辺に位置するのかわからない(ものの本には仙台市北西とあった)。いずれにせよ貧相な温泉宿が一軒ポツンとある小さな川へりである。ここは明治時代に発見され、稀産のグメリン沸石の本邦唯一の産地として名を馳せたのであるが、戦後になってじつは菱沸石と判り世の石人をがっかりさせた。しかし、古典銘柄品には違いなく、発見時の地質学雑誌の報文は格調高い美文であった。 さて、着いたものの6時ではまだ曙光も射さない。明るくなるまでと仮眠をとる。7時、まだ薄暗いが出発である。

余等車を降りてかそけき光のなか橋を渡れり。対岸には宿泊棟らしきものあるも人影さらになし。その背後は直立板の如き険崖にしてなお右方に続く。この険崖の上方の輝石安山岩の層より沸石が出たるらし。余等建物のまえより右に転じ、崖裾に沿いたる道を百米ばかり進む。やがて道は消えたれど、一帯には急崖よりの転石散乱したるを見れり。ここが沸石の産地なるべし。 余等鉄槌を振るへり。脆き暗色の安山岩にして容易に砕けり。随所に白色の沸石らしきもの充填し、ときに小空隙ありて結晶らしきものあるも、いずれも微小なればこの明け切らぬ薄明においては見るべきものさらになし。或る者、母岩中の亜灰長石、輝石の採集に転じたるも、一穴主義者の誉れ高き余一顧だにせずひたすら沸石を求む。 とある大なる黒き転石を余砕きしに、一乃至二糎ばかりの空隙多数あるを見つけたり。時既に陽光高くして、壁に被覆林立する白色結晶明瞭なり。低錐の算盤珠の如く、これぞかのGmelinite、愚迷淋沸石と唱われし菱沸石ならん。その外形Phacoliteタイプにして径三粍に及ぶべし。表面やや粗鬆にして平滑ならず。偏菱二十四面体をなせる一粍以下の輝きよき無色透明晶も多数共生せり。方沸石と同一の外観なるもM氏、学生氏こぞりて共生関係よりWairakite、猥裸怪沸石ならんと唱う。さらに方解石伴うことありしも、微小にして特筆すべからず。また赤き母岩にも愚迷淋沸石様菱沸石を見ることありて、余の以前需めたるものそれなり。当地のもの古典銘柄品なれど他地のPhacolite一級品になお及ばず、東北の間瀬といいしは白髪三千丈の類なるべし。また本日の最良品といえど余以前に参仟圓で需めし当地の標本を凌駕すべからずは遺憾なり。されど名所旧跡遺跡探訪また楽しからずや。石聖・和田惟四郎翁が訪山せしや否やは知らざるとも、明治の石人の夢の跡追うもげに面白き哉。嗚呼、合掌。

 さあ時は八時、出発だ。次は郷六の高温石英である。筆者は持っていないが、やや白っぽい半透明の美麗とはいいがたいものをどこかで見たような記憶がある。日本鉱物誌には広瀬川の川床で落ちてきた分離晶が拾えるとあるが、K老は学生時代裏山で5ミリ大の完全透明美晶をよく採集したというし、M氏はどこかから紫色の美晶を入手したことがあるという(筆者にもお裾分けした筈というが、台帳検索の結果M氏の記憶違いであった。いまからでも遅くないからお裾分けしてほしい)。 産したのは仙台市街地から少し外れた東北大や宮城教育大のある丘陵の下をくぐっているトンネル出口の少し上の層だというので、そのトンネル出口に市街地と反対側から接近を試みる。遠くから急斜面の下方に開口した出口は望めるのだが、その山裾にはどうしてもたどりつけない。まるでカフカの「城」である(5万地形図も最新ロードマップも持ってないのでこれ以上地理的説明はできない)。ついにこちら側からのアプローチをあきらめ、一旦市街地にでてそこから青葉城公園経由で向かうことにする。K老の母校を通過し、宮城教育大学を過ぎたあたりでクルマをとめる。丁度稜線を越したあたりである。ここから右に遊歩道が走っており、このあたりの山や川が若き日のK老のデートコースだったらしい。♪広瀬川、流れる岸辺、思い出は帰らず♪ーという青葉城恋唄の世界である。いまはババ転がしの異名をとるK氏にもそういう時代があったのだ。ところが、その思い出の遊歩道が車道からちょっと入ったところで消えてしまっている。山道はけもの道に、そしてついに薮になってしまった。それでも老残の身に追憶の旅はやむことがない。薮漕ぎのすえ、ついに遊歩道らしきところにでられた。なるほど、路面には2、3ミリの小さい高温石英が散在している。輝きも透明度もいいが、結晶は不完全というより大半割れているし、稜は丸まっている。なによりも小さすぎてわが老眼では採集は困難である。K氏はどこかにもっといい露頭があったはずだといい、さんざん歩き回ったが結局は路面採集とあいなった。もちろん紫色などしたのはない。環境はなかなかよく、渓流などもあって女人(家人を除く)と散策するならいいが、誤認組なら石以外にない。ところが、そちらの方はやや期待外れでK氏のノスタルジアにつきあわされた諸兄はうらめしげである。ここの地名は仙台市青葉区荒巻郷六というそうだ。帰路は稜線を伝い最後は教育大のキャンパスに出てしまった。責任を感じてかK氏は母岩付きを取ってきたからみなで分けてくれといって筆者に託す。

註:帰りの車中、この分配をしようとしたところ、学生氏は小さいのがいいといって見もせずに小さいものを一個だけ取った。M氏とW氏は筆者が預かっておいてくれと、さしたる熱意をみせない。帰宅後みたら3センチの母岩に8ミリの巨晶が鎮座しているものがあり、保管料としてありがたくいただくことにした。

 時刻は十時半、いよいよ大本命の菫青石産地に向かうことにする。秋保温泉のさらに先だそうだが、温泉のずっと手前から交通渋滞にぶつかる。そのあと、筆者は眠ってしまい、目が醒めたときは丁度0時で、林道脇の土取り場あと入口であった。ここが産地なのである。 さて、ここは全員初見、実物をみたのはK氏だけ。なんでも堆積した軽石層のなかの花崗岩片の周囲に石英がありその境目に菫色というか淡紫色透明の自形晶があるという。菫青石は全国いろんなところででるが、いろんな出方があって、いわゆる「櫻石」を除くとあとはどうも統一的なイメージが湧かないが、いずれにせよ外国のもののような菫色透明の自形晶というのは知らない。それがでるというのだ。 さて、林道から入るとすぐに上段に崖がみえるが、先頭のK氏はそちらに行かずに道なりにどんどん進んでいく(単なるヤマカンで全く根拠がないことがあとから判明した)。切り割りをみては首を傾けている。火山岩らしき崖で花崗岩片など見あたらない。道は急カーブするのだが、そこの切り割りは軽石で、そこをK氏がつついてみる。われわれはまずどんなものか判らなければ採集しようがないので、まずは高見の見物。そこへ遅れて到着したW氏がK氏の横でひょいと小さい岩片を拾い「あった」という。優白色の花崗岩片の一部に、なるほどいわれてみれば淡紫色のしみのようなものがみえる。つづけてまた「あった」とW氏、「今度は自形晶だ」。みな、色めきたち、いっせいにこの小さい斜面にとりかかる。M氏が途中目がみえなくなったと騒ぎだしたが、茶を飲んだら癒ったらしい。不思議な人物だ。  W氏は自形晶をとったからもう用がないとばかりに道を上に行く。

 でない、いくらやってもでない。軽石と赤茶けた花崗岩片だけで、一向に菫色のものはでない。ときに優白色の花崗岩片に灰緑色の部分があり、ひょっとしてーと思うのだが、みなの意見はへきかいがあるから長石だ、色もちょっと違うと宣う。万が一と思い、そうしたものを二、三ポッケに入れる。 ついにここを断念、W氏の跡を追ってカーブした上へ向かう。上部は採土跡を整地植栽した原っぱで、最前方に崖があり、そこにW氏や学生氏の姿がみえる。 筆者はその原っぱの転石からついに菫青石を見出した。握り拳程度の優白色で角閃石がいっぱい入った岩石を割ったところ、その一部がぼーと淡紫に染まっている。まるでヂュモルチュル石のようで捕獲岩が熱変成を受けて生じたものかもしれない。通りがかったM氏に見せたところ、即座に片割れはどこだと宣い、一ケ取り上げられた。しかし、これ一個であとが続かない。W氏たちもダメだったと戻ってくる。K氏は最初の切り割りのところでダウンしている。結局、最後まででなかったとのこと。筆者が取ったもののカケラをK氏と学生氏に提供する。気負いたってやってきたK氏の失望落胆は傍目にも明かで、短い老い先がさらに短くなったようだ。もう時刻は二時、早く帰らないと道路が混む。とぼとぼと引き揚げる。 クルマに乗ろうとするとK氏の姿がない。素通りした上段の崖のところからK氏の叫び声が聞こえる。「ここが有望だぞ!」。

 軽石の堆積層だが、ところどころに優白色の花崗岩片(特徴的なのは黒雲母の代わりに大きな角閃石がいっぱい入っていることである)や霙の固まったような石英(K氏はザラメと称していた)がある。こういうところから出ると聞いたというのだ。  やがてK氏がザラメのなかから菫青石をみつけた。菫色透明の自形晶だという。筆者にもお裾分けがあったが、筆者の老眼では確認困難、やむをえずこのザラメがでてくるたび(とはいってもそう簡単にはでてこない)、確認せずに袋に詰め込む。殊勲打はまたもW氏、4ミリはあろうかという自形晶が多数ついた優白色岩片を採集。それをお裾分けに預かる。なるほど、菫色といえばそうだが、筆者がそうでないかといって片っ端から否定された「長石」とそう大差ないようにもみえる。M氏も学生氏もそれなりに採集したようで、筆者だけが自信を持って自力採集したといえるものがない。筆者が最初に挙げたヒットのことなどとうに忘れ去られてしまった。無情にも時間は過ぎ行き、三時過ぎに採集打ち止めとなる。

註:帰宅後、じっくりと実体顕微鏡で観察した。じつにみごとな淡い可憐な菫色の透明なもので長石とは間違いようのないものである。1ミリ以下の小さいものなら多数あり、なぜ現場で判らなかったのかと、自らの視力の衰えを痛切に感じた。結晶は六角柱状だが、表面はかなり凹凸がある。ザラメはすぐばらばらになり、分離したものもかなりあった。また、ザラメのなかには角閃石の他八面体の磁鉄鉱微晶も多かった。もう一度行って時間をかければかなりいいものが取れそうな気がしてきた。

 さて、ところでこの産地が一体全体どこになるのかが判らない。帰り間際K氏にここはどこなのかと聞いた。「なにをバカなー」と傍らにいたM氏が呆れ果てたというか、軽蔑しきった表情で吐き捨てるようにいう。古人曰く聞くは一時の恥、知らぬは末代の恥。無視して野帳を構える。K氏がおもむろに資料を取り出す。W氏も知らなかったとみえて、メモの準備。振り返るとM氏までがメモの準備をしているでないか! 宮城県柴田郡川崎町本砂金(モトイソゴ)中内野というのが産地名であった。 いよいよ帰路である。ところが秋保温泉の手前からえんえんと渋滞。これではいつ帰れるのかと気が気でなかったが、高速に入ってからはスイスイと流れホッとする。安達太良のSAで夕食後ほとんどノンストップで東京へ。十時、わが家に着く寸前にメガネをSAで忘れてきたことに気付く。7月の恵那で辛うじて助かったメガネであるが、結局3ケ月の余命を保ったにすぎなかった。また一万円の出費は痛い! なにはともあれ、かくて文化の日の採集行は無事終了。われらがオーナーW氏に深謝する。

<完>