鉱物編 − その他雑文一覧、解題

喪き兄へのレクイエム

5月23日、午前8時30分、兄が死んだ。ただ一人の兄弟だった。仮通夜、通夜から葬儀、初七日と慌ただしい儀式を終えて、はや十日の日が過ぎたが、まだ兄が死んだとは信じられない。今でも京都へ帰ればにっこりと笑みを浮かべて「おう、武、来たんか」といいそうな気がしてならない。

9才も年上だから、小さい頃から兄弟喧嘩というものをした記憶がなく、酒やマージャンや水泳のてほどきをしてくれた頼りがいのある人生の先達という感じだった。 ふだんは手紙のやりとりとてなく、電話も用のあるとき以外はめったにしなかったけれど、関西方面への出張の折などのとき、必ず飲みに連れて行ってくれ、泊めてくれたし、ぼくがレンジャーとして駐在した岡山・鷲羽山、岐阜・平湯温泉、宮崎・えびの高原という辺鄙なところへも訪ねてきてくれた。べたべたしたつきあいではなかったが、とても仲のいい兄弟だったと思う。

今年の二月、転職の下見に来たときも一緒に飲み、泊めてくれて、4月からは月に一度くらいは一緒に飲めるなといっていたのに、まさかこんな早く永遠の別れをしなければならないとは夢にも思わなかった。今年好きなスキーにも冬山にも行き、秋にはヨーロッパアルプスに行くといっていたのに…

兄は山が好きだった。山と山の友こそが兄のいきがいだった。高校時代水泳部にいたが、大学に入ってからは山の魅力にとりつかれた。だが、山岳部には属さず、友人たちとフリーな北嶺会なる一種の市民山岳会を組織した。毎週のようにその会合がわが家で行われ、創設時の会員たちとはぼくまでも顔なじみになった。

兄は大学を卒業後、技術屋(電気設備)として市役所に入った。いわゆる上級職試験採用ではなかったにもかかわらず、50まえに清掃工場の副工場長になったのだから、誠実に仕事をして信頼を得ていたことは間違いない。 目から鼻に抜けるような要領のよさはなかったが、役所内のつきあいもよくし、それとは別に個人的なマージャンや酒の友人も作っていたから、人付き合いが好きだったんだろうが、それでも兄にとってはいつも山やスキーと北嶺会のことが中心的な関心事であった。

十数年まえ、母と父が相次いでなくなった。父の家業だった小さな本屋は父の死後も兄嫁が兄の知恵を借りながらほそぼそと内職的に続けていたが、兄はそのころから市役所を退職して本格的な書店経営に乗り出すことを考えだしたようだった。市役所、とくに清掃工場での労使関係や人間関係に嫌気がさしていたのだろう。

何年かの準備期間後、兄は退職。退職金をつぎ込んだうえに融資を受けて別のところに開店した書店は周到な読みが的中し、売上は予想以上でなんとか成功を収めた。 父の本屋というのはおよそ薄汚い小さなもので、母は書店らしくこざっぱりしたきれいな店に改装するのが夢だったから、兄はみごとに母の死後その期待に答えたのだった。 もっと大きい二軒目の店も出し、これも大成功を収め、兄は得意満面だった。三軒目としてついに河原町に地図とガイドブックの専門店を出したが、これは失敗に終わった。兄の計算では成功すると踏んでいたのであろうが、やはり自分の<山>という個人的な夢や思い入れで冷静でなければならぬ計算が狂ったのだろう。だが、出血の小さいうちに撤退した。また、最初の店は地上げにあい、ちょうど、売上も頭打ちに差し掛かった頃だったので、これ幸いと撤退し、バブル最盛期のこととて、ちゃっかりと利益をあげた。

その頃からつぎつぎにチエーン店を出すという方針を転換。家族全員で1軒の店を守り育てることにした。何軒もの店を出していたころには、まだ子供たちも一人前でないこともあってほとんど<山>には行かなかったようだが、この頃から本格的に再開、ついに若い頃からの夢だったヨーロッパアルプスまで遠征することを決意したのだった。

この3月。体調の不調を覚え病院へ。軽い胃潰瘍だがベッドが開き次第入院と宣告される。それからも仕事は続けていた。3月29日、仕事中に気分が悪くなり自分でバイクを運転し再度病院へ。そして緊急入院。このとき初めて家族に末期胃ガン余命最長3月と告げられる。この日は奇しくもぼくが9年間住んだ公務員宿舎を引き払った日で、子供たちの下宿で電話を受け、絶句した。

3月30日、三田に引越荷物を入れ、翌日兄の見舞いに。病床にいる兄は元気で、顔色も悪くない。来月には退院できるだろうから、そのときはお前のところに行くと屈託のない口調。だが、医者の診断では胃だけでなく肝臓が完全に侵され、爆発寸前で手術どころから開腹すること自体不能で、制ガン剤も適用外とのこと。 以後、毎週見舞ったが、そのたびに衰弱していくのがよくわかった。はじめは起きあがってしゃべっていたのが、寝たきりに。一応食べていたのが、ほとんど食べなくなり、用便も自分でしていたのが、それもできなくなっていった。だが、意識だけは正常で、口調もしっかりしており、退院できる日を心待ちにしていた。 4月半ば、花見をさせてやりたいとのことで二日だけ自宅に。 4月29日、北嶺会が兄へのお別れのために別の名目で開いたパーテイに出席。これが最後の外出になった。 5月に入ってモルヒネの副作用か声が涸れはじめ、口調ももつれるようになるが、依然意識は正常。そしてまったく自分がガンであることなど疑っていない模様。 5月16日、店の売上や改装計画を病床の兄に報告していた長男が、それまでは口調はもつれていたものの内容はしっかりしていたのが、やたらに話がとんだり繰り返しになることに気付く。 5月17日、前日の容態急変を聞き、見舞いにかけつける。このときは正常に会話できた。家族、北嶺会の中心メンバーらと医師に病状の説明を受ける。意識の混濁は代謝機能が失われたことを示しており、黄疸、腹水、全身のむくみ等の様子から一週間ないし十日の余命。これから苦痛が激しくなるとのこと。

5月18日から一日置きに病院につきそいとして妻と泊まりに行くことにする。その18日はさしたる苦痛の様子はなく、夢と現実の狭間に漂っているようなことをしゃべりだす。 だが、19日から再び意識は正常に戻り、幻覚のようなことはいわなくなった。コトバこそ聞き取りにくいものの、意識は正常で、苦しみだけは日増しに増していく模様。耐えがたい激痛というよりはどうにもならぬ悪寒・不快感にいてもたってもいられぬ模様で、手助けを受けてしょっちゅう起きあがったり、座ったりする。 22日、終日うなり声をあげる。なんでや!どうなってんのや!と時折苦しい息のもとに義姉にいったというが、見舞い客にはほとんどしゃべれぬものの笑顔を見せて対応する。 22日深夜からうなり声はいっそう激しくなり、もっと強い痛み止めの点滴を要請するも医師がつかまらないとのことで、聞き入れられず。 23日、早朝ようやく到着した医師に、これ以上の痛み止めは突然の出血による絶命の可能性があるが、それでもいいかと告げられる。もはやこうなっては如何ともしがたく頷く。30分後、痛みはとまった様子で実にやすらかな寝息寝顔になりほっと一安心。このまま何日か安らかに過ごしてくれそうな気もするが、一応叔母と北嶺会の連絡役に電話。 その一時間後、小さなゴボッとした音がする。看護婦が鼻と口に通した管から吸引すると恐ろしい勢いで血が飛び出し、呼吸がほとんど止まる。心臓はまだ動いており、手を握って「お父さん!おとうさん!起きて!」「兄貴!兄貴!起きろよ!」と口々に叫ぶが、そのまま眠るが如く息を引き取る。ちょうど北嶺会のF氏が病室に入った瞬間のことで、時刻は8時30分だった。死顔はきわめてやすらかで、まるで気持ちよく眠っているようだった。

兄の葬儀は事実上北嶺会葬だった。世話役や雑用はほとんど北嶺会のメンバーが引き受けてくれ、百名を越す会員が涙ながらに参列してくれた。 遺骨の一部は北嶺会のメンバーが拾い、それを兄が愛した北アルプスの鹿島槍ケ岳と、兄の夢だったヨーロッパアルプスに散骨してくれるという。そして兄の祭壇には北嶺会有志による花を絶やさないという。

満60才、孫の顔どころか子供の結婚にも立ち会えなかった兄の死はいかにも早すぎたが、子供も一人前になり、家族の生活を保証する立派な書店を残し、実の兄弟以上の紐帯に結ばれた山仲間に見送られた兄は幸せだったような気もする。

人間の価値というのは地位や名誉やカネではない、どんなすばらしい人間関係を構築できたかの一点にかかっている。その意味では40年に渡って山仲間の友情を育くみ、かれらのみまもる中でこの世を去った兄はやはりただものでなかった。

兄の<山>と生きざまに、ぼくの<石>と生きざまは対峙拮抗できるだろうか?

さいなら、兄貴。これでオレの生まれ育った家族と家庭がみんな消えてしもたわ。それが人生というもんかも知れん。そやけどなあ、いまでも兄貴が死んだことが信じられへんねん。これからはあの世で好きなだけ山に登りや。そのうち、北嶺会の人らも行かはるし、義姉さんやこどもらも行きよる、もちろんそのまえにオレが行くけどな。それまで待っててや、兄貴。また酒飲も、思いきり飲も、な、兄貴。