鉱物編 − その他雑文一覧、解題

ぼくの社会主義雑考

かつて新左翼にシンパシーを抱いていたぼくが、「社会主義」についていまどう考えているか、一度は整理というか総括してみようと思う。大学時代のごく短期間活動家の隅っこに位置したことがあるだけで、中心的な活動家だったことはなく、また学者でもなければ思想家でもないぼくが、そんなことをする必要も責任も毛頭ないのだろうが、かなりの長い年月を半身とはいえ<革命>とかトロツキズムとかいう観念に愛着を抱いて生きてきたわけであるから、これも自分なりのけじめではないかと思う。

<ぼくと社会主義>

ぼくが物心ついたとき、もういまはなきぼくの両親は社会党左派を応援していたし、つい先日死んだ9才上の兄も選挙には共産党に投票していたから、ぼくもなんとはなしに、社会主義とは貧しいものの味方だとか、平和の味方だというようなぼやーとした意識を持っていた。家族のそれにしても理論的なものではなく、当時の庶民の平均以上の知的関心がありながら、生活上では恵まれなかったり、即自的に戦争や軍備に対して嫌悪感をもつ家庭ではごく一般的な傾向だったろう。お上に対する反発とか庶民的な正義感といってもいいし、悪くいえば貧しいものの僻みのあらわれといってもいいかもしれない。したがって社会主義とはなにかという明確な観念があったわけでなく、当時の一種のアンチの旗印といっていいだろう。 ぼくはどういうわけか同志社中学、同志社高校と、いわばお金持ちの子弟が大半を占める分不相応な私立に行き、わが家の貧しさは一層肌身に感じていたから、余計にそうだったが、かといって高校1年のとき六十年安保闘争があったけれども、ほとんど関心をもたなかった。 大学に入っていろんなアジ演説を聞いたり、それに乗せられて何度かデモに行ったりして全く未知の世界に不用意に触れ、自治会のクラス委員をやり、1年の終わりには或るセクトの下部組織(トロツキーの第4インターの系統の「レフト」。上部団体は日本革命的共産主義者同盟(関西派)といわれていたもので、日本トロツキズムの草分けだが極小数派)に所属するようになっていた。マルクスやエンゲルス、レーニン、トロツキーの諸文献なども読んだが、正直いってこういう理論的なものには余り興味がもてず、あくびをかみしめながら読んだ記憶しかない。むしろ<全世界を獲得するために>自分の私心を捨てて活動に邁進する活動家たちの生きざまに惹かれたといっていいだろう。理論はともかくとして、<革命>の現実性ということは感性としてはぴんと来なかった。

だから、活動をしていてもいつも心のどこかで違和感を感じていた。やらねばならぬと思ったわけだが、やりたいことではなかったのだろう。義務感の方が大きく、充実感の方はあまり感じなかった。 幸か不幸か、大学2年のとき父が輪禍にあい、休学こそしなかったものの、一年近く家業の本屋をやらざるをえなくなったため、活動から自然に引退する格好になった。大学に戻ったときすでに運動自体が衰退していた。あまり積極的ではなかったがいきがかり上、農学部自治会選挙に出た。やる気のなさがみえみえだったのか、それに敗れ、そしてそれからはほとんど活動の方は休眠してしまった。当時のコトバでいえば活動からの召還、もっと簡単にいえばショウモウしたのである。 そのまま革命や社会主義のことなど忘れてしまえばよかったのかも知れないが、いつも心のどこかにひっかかっていて、明けても暮れても左翼運動史・セクト興亡史や心情左翼的な本ばかり読んでいた。それに日本の闘争は沈滞していたが、ベトナムでは英雄的な解放闘争が圧倒的な米軍相手に戦われていた。当時愛読していた本というと吉本隆明、谷川雁や埴谷雄高の政治論集、高橋和己や柴田翔のような暗い小説、或いは奥浩平の遺書、そして白土三平といった定番である。なかでもドイッチャーのトロツキー伝三部作は白眉であった。 この傾向は就職したあとも変わることはなかった。いや、就職した年には衝撃的な羽田闘争があり、それから1970年までの間、東大・日大闘争が火を噴き、学生だけでなく、若い労働者が反戦青年委員会に拠って街頭闘争を展開しはじめた。内ゲバの季節でもあり、ノンセクトラヂカルというコトバが流行、ついには赤軍が旗揚げした、そういう時代であるから一層そういう読書傾向に拍車がかかったといっていいだろう。

また、チエコではドプチエクによる「プラハの春」(68)があり、人間の顔をした社会主義がスローガンで、トロツキーのいう反官僚政治革命が実現するかにみえた。パリでは5月革命(70)が燃え盛り、アメリカでもドイツでもラジカルな若者の反乱の季節だった。 鷲羽山に駐在していたとき、岡山反戦と連絡をとり、Tさん夫妻やMさんと仲良くなったが、かれらはぼくの役人という立場や、本質的に評論家的なデイレッタントであって活動家向きでないことを知っていたのだろう。同志でなく友人として扱ってくれた。 平湯に駐在したとき使った学生バイトの大半は全共闘くずれで、そういう話ばかりしていた。ここでは本が手に入らず、東京に出たとき大量にそのての本を買い込んだものだった。あれは時代の熱病だったのだろうか。そして革命に恋はつきものである。 鷲羽山時代の最後、バスで知り合ったTさんは喫茶店のウエイトレスだったが、すごいインテリで、ベ平連の活動家だった。そして平湯への転勤と時を同じうして同じ活動家仲間と結婚し、ぼくの恋情だけが置き去りにされた。

平湯二年目の夏、中核派の幹部を恋人にもつが、活動に消耗したSさんがバイトに来た。彼女に惚れたが、夏の終わりとともに去っていった。 70年を境に急速に運動の汐は引いていった。折しも三島由紀夫は自決、そして高橋和己も早逝した。ぼくの心情左翼的なこだわりだけがいつまでも残った。 この頃ぼくと問題意識を一番共有しているかに思えた著述家は湯浅赳男と西田照見だった。

いつの頃だったか東京へ転勤したあと西田氏と連絡をとった。かれはもう親トロツキズムの立場から脱皮、いわば脱マルクスの民権社会主義的立場をとっておられるようだった。氏は何人かの研究者仲間と現代社会主義論研究会というアカデミックな勉強会をやっておられ、それにたまに顔を出させてもらってはいたが、いぜんとして自分の社会主義というものに対する価値観に確たるものがなかった。しかし、国内、国際動向に加えてこの勉強会の影響もあってか、ラジカルに対する心情的思い入れのようなものは徐々に希薄になっていった。 国内の運動は衰退していた。中核と革マルの血で血を争う凄惨な戦い。そしてブンドや構改系セクトの果てしなき分裂と衰退。 国際的な動向も大きく変わってきた。 先進国の若者の反乱の季節はすでに終わっていた。プラハの春も圧殺された。

明るいものとしては、75年のベトナム戦争勝利が最大のものであろう。ベトナム、カンボジア、ラオスでいずれも共産党が領導する民族解放闘争が勝利したのだ。 だが、これら三国は国境を越えて連帯するのでなく、対立しはじめた。ボルポトの農民共産主義路線は大量虐殺を引き起こし、社会主義、民族解放というものに対する深刻な疑念を生んだ。社会主義理論にとって民族問題はなお十分な解決策を準備しえていないことを感じざるをえなかった。 このころ中国でも文化大革命の破産、毛沢東の死、4人組逮捕と大変動が起き、中国社会主義の実像が明るみにでるにつけ、幻想はみるみる萎んでいった(ぼく自身ははじめから幻想をもたなかったが)。 80年代に入り、労働者自主管理を国是とし多くの関心を呼んだユーゴの実験も破産が明らかになり、ユーゴ自体が分解の兆しをみせはじめた。自主管理こそがスターリニズムに代わる社会主義の原理との思いが、ぼく自身ないわけでなかっただけに社会主義の実現可能性におおいに疑問をもたねばならなかった。 また、ポーランドでは「連帯」による権力への挑戦がはじまっていたが、かつてのチエコ同様圧殺された。しかし、80年代半ばからソ連ではゴルバチョフが出現、ペロストロイカが開始された。

ぼくは84年に鹿児島に転勤、87年に東京に戻ってきたのだが、鹿児島時代はこういう話をする相手もなければ、図書文献も手に入らず、この間に革命とか社会主義への心情的な思い入れはいっそう薄くなっていった。

そして90年代に入ってから、ついに東欧、ソ連の「社会主義」はまるで裏返しのドミノ理論のようにつぎつぎと崩壊していった。さいごの期待の星であったゴルバチョフもまた失脚した。東西対立の構図は終わった! ソ連・東欧「社会主義」の崩壊自体は、その急激さに驚きはしたものの意外ではなかった。トロツキーも反官僚政治革命を予言し期待していたからだ。だが、スターリニズムの否定がトロツキーの再評価にも本来の社会主義への接近にもつながらなかったことこそが衝撃的だった。スターリニズムの否定は長らく異端視されてきたトロツキーや左翼反対派のみならず、レーニンからマルクスまでの全否定に行ってしまったのだ。長年の圧制はもはや一般大衆にとって社会主義=スターリニズムとイメージされてしまっていたのだ。そして拝金主義、エゴイズムが大手をふってまかりとおる粗野な資本主義、マフィア資本主義の様相を呈してきた。 ある日新聞に湯浅赳男の談話がでていた。ソ連の崩壊をザマアミロというものである。図書館に行ってかれの近著をペラペラとみた。なんとロシア革命はレーニン一派の愚かなクーデターであったと、まるっきりの転回をしていたのである。そこにはトロツキズムの周縁で苦悩していた真摯な理論家はもはやいなかった。

中国では経済面では資本主義的改革が進む一方天安門事件があり、ベトナムでも近代化をめざしたドイモイ政策がはじまった。 旧ユーゴでは悲惨な内戦開始。一方、反共独裁の韓国、台湾ではそれなりの民主的改革と経済的離陸が成功し、中国、北鮮とは対照的だった。

こうした80年代末から90年代にかけての怒涛の時期、大学時代の友人がいまも何人かいて人脈的にはもっとも近かったから、その飛躍をかげながら願わぬでもなかった(もっとももう80年頃から機関紙もとらなくなったし、カンパもしなくなっていたのだが)第4インターは、国際的には相変わらず影響力のない小セクトのままで、古典的トロツキズムの有効性は失われたと判断せざるをえなくなった。第4インター日本支部も分裂を繰り返し、政治的命運は尽きたかのようだった。 一方、東西冷戦の集結とともに、日本も変わり始めた。長年の自民単独政権は崩壊し、連立の時代に入った。社会党は政権政党の一角を占めたもののその変節は著しくついに党名まで社民党に変えてしまった。旧社会党の或る意味では非現実的な、理想主義的な、しかしながらかつてはリアリテイがあるかにみえないこともなかった理念を継承するものはとるにたりぬ小グループになってしまった。社民党自体もいずれ雲散霧消する可能性すら高い時代に入ったのだ。共産党だけが旧態依然としており、それはそれで信頼感がおけないわけではないという、奇妙で混沌とした政治状況になった。

以上の個人史を踏まえて、ぼくの「社会主義」「マルクス主義」「革命」といったことに対する、現時点での評価であるが…

困ったことに、社会主義とかマルクス主義というのがそもそもなにかよくわからない。大体、この<主義>なるものが、世界観とか歴史観といった価値観なのか、思考の方法なのか、運動の理念を指し示すものなのか、社会経済システムなのか、はたまた自分の立脚点に対する信念・信仰なのかが哲学オンチのぼくには曖昧模糊としたままなのである。 仕方がないので、わからないなりに、とりあえず思いついたことを書き連ねていくことにする。

<社会主義と革命に関する私的感想>

1、マルクスとエンゲルスは唯物論と弁証法を武器にして資本主義の構造分析を行い、資本主義のあとにくるものとして労働者階級による革命を経て、新しい理想的な社会がくることを期待した。その社会は

を柱とするもので、生産力の発達程度に応じて、過渡的なプロレタリア独裁期から、社会主義社会ついで共産主義社会が実現するとした。

2、こうした理想社会を考え、それを<社会主義社会>とか<共産主義社会>と呼んだのはマルクスがはじめてでなく、以前から存していたが、その主体が資本主義の分析に基づき、労働者階級であり、それが恣意的でなく必然であるとしたところにマルクスの独自性がある。この背景には当時の悲惨な労働者階級の現実があり、科学であれ空想であれ<社会主義>を志向せしめたものは「自由、平等、協同」の理念であった。マルクスは人間がすべての疎外から解放される世界を願っていたのである。

3、マルクスはこの理想社会が具体的にどんなもので、いかに運営するかまでの考察は行わなかった。また、マルクスにとってたとえば社会を維持発展させるための労働はやむをえぬ苦役なのか、人間の自己発現なのかについても、ときに考えがぶれていたかの感がする。また、マルクスは一挙の武力による<革命>によってしかこうした社会は出現しないとを考えていたが、マルクス死後、晩年のエンゲルスは議会を通してのそれも考慮に入れるとしており、これがいわゆる「修正主義」につながっている。

4、この時代、いくつかの国においては革命自体の成功の可能性については一定のリアリテイはあったと思う。

5、急進的なマルクス主義者であるレーニン、トロツキーらボリシェビクによる「社会主義革命」がロシアで成功した。レーニンは<革命>後の社会について具体的イメージを提示した。コミューン=ソヴィエト型の、三権分立を否定した直接民主主義である。しかしロシアはその生産力からして、「社会主義社会」が実現するとはレーニンらも考えておらず、ひきつづき世界革命が起こることを期待した。その期待に一定の現実性はなかったとはいえないが、結局は外れ、孤立と敵意のなかで新しい社会造りを強いられた。コミューン=ソヴィエト型直接民主主義による国家運営は不可能であった。

6、それでも20年代半ばまでは一定の政治的民主主義は存していたが、レーニン死後、国力の疲弊のなかで次第に形骸化し、ついに完全に圧殺され、いわゆるスターリン体制が出現、トロツキーは失脚した。

7、したがって20年代半ばまでのソ連は粗野とはいえプロレタリア独裁(この名前はよくないと思う)、あるいは萌芽的社会主義社会だったといっていいと思う。

8、スターリン体制確立後のソ連社会や、大戦後成立し、ソ連体制をまねた「東側諸国」は社会主義を潜称してはいたが、本来の社会主義とは遠く隔たっていたものである。社会主義とはこんな独裁体制であり、だからこわいのだとする論者と、独裁体制・非民主主義というのはデマゴギーだという論者に大別されてきた。しかしソ連崩壊後の今日、かつての後者の陣営でもそれが本来の社会主義社会でないことが広く認知されてきた。 このこと自体は、60年安保の頃から一部のインテリ層や学生層には自明の理だったが、それをどう定義するかはソ連論として昔から議論は絶えなかった。「堕落した労働者国家」(トロツキー)とか「国権社会主義」「現存社会主義」がその一例である。生産手段は事実上党・国家官僚あるいはその長たる独裁者が所有していたので「国家資本主義」であり、途上国にみられる開発独裁の変種だという見方すらある。しかし、そうした呼び名の如何にはたいして意味はなく、本来の社会主義社会でないということだけを確認しておけばいいと思う。 問題は本来の社会主義なるものが本質的に社会経済システムとして実現可能なものであったか、あるかである。

9、一方、マルクス主義政党などに領導された階級闘争の激化は、資本主義の枠内でも政治的民主主義の定着、一定の労働者の経済的改善や権利の拡大がなされるに至り、修正主義、いわゆる社会民主主義政党が権力に参画したり強力な地位を占めたりするようになった。社会民主主義政党はシステムとしての社会主義は否定し、現体制のもとで主として本国大工場労働者の地位向上を目指すものだったといっていいだろう。また植民地諸国でも民族解放闘争が起き、つぎつぎに独立していった。

10、官僚独裁となったソ連圏諸国で、再三民主化闘争が起きた(ハンガリー動乱、プラハの春、ポーランド連帯運動、中国天安門)が、いずれも圧殺された。歴史にIFは禁物だが、これらの運動が成功していれば本来の社会主義が実現したのか、一種の資本主義体制に戻ったのかは考える余地がある(後述)。

11、一方、チトー統治下の旧ユーゴ、カストロのキューバ、ホーチミンのベトナムの経験は、比較的公正清廉な指導者のもとでは圧倒的な人民の支持のもとに革命が勝利し、その後も一定の民主主義的な国家運営が可能であることを示唆している。

12、しかしながら歴史上の経験は

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以上を勘案すると、「本来の社会主義」システムがそもそも実現可能なものか、望ましいものか、どうか疑わしいといわざるをえない。

13、以上の結論からすれば、生産手段の私的所有の廃絶と市場メカニズムの排除と徹底した完全な民主主義の三者が共存調和する体制は、不可能とはいわぬまでもとてつもなく困難であり、かりに可能としても高度消費社会や情報化社会まで生産力の発展を期せない社会であると思う(ベトナムや現代中国はそのことに気づき、経済的には資本主義的な路線転換を図っている)。 また、少なくとも一定レベル以上の生産力と民主主義を達成した社会においては、バリケードや武装蜂起による<革命>の現実性はないと思う。しかし、血生臭くても<革命>をなお必要とする社会が今日の世界で多々あるのも事実である。

14、しかしながら環境・資源・エネルギー等の制約を考えると、そんな高度な生産力をもった社会がそもそも必要か、また全世界的に実現可能かという問題こそが本質的である。 強いられたものとはいえ、キューバは経済的には貧しいながら別の意味で豊かな社会をつくる実験とみなせる。しかし、カストロというカリスマがいなくなればそれも崩壊し、ベトナムのドイモイのように生産力主義に路線変更するか、非人間的な北鮮型の社会に移行するような予感がする。

15、マルクスもレーニンもトロツキーも生産力至上主義の時代の子であり、ついには時代の制約を超えられなかった。また、マルクス理論には原点回帰、メシア到来、千年王国といったキリスト教文化の無意識的な投影もあると思う。 かれらの決定的な過誤はその硬直的な人間観にあると思うし、人間社会を人為的に完全に操作可能、コントロールしうるものとみなしたことでないだろうか。どんな理想社会ができても人間あるいは人間諸集団はある程度利己的な存在であることを免れえないし、その出現前はなおさらで、そのことが理想社会の出現自体を阻害すると思う。 単純にいって、どう考えても実現不可能なスローガンで、現実的には利害が相反するはずの諸大衆グループを煽り、<革命>を成功させた場合、それが実現不可能な故に革命政権に対して或る大衆グループの不満が鬱積し、それを圧殺する体制が出現するのは理の当然と思える。逆に実現可能なスローガンだったとしたら、よほど頑迷な独裁体制(まあ、結構多いと思うが)以外は、<革命>を阻止するために、そのスローガンをある程度は実現せしめるはずである。つまり<革命>は必要かつ実現するとしても、それを永続化させることは困難であるといわざるをえない。

16、とはいえ、革命後のロシアにおいて長期にレーニン、トロツキーが国家運営に当たっていれば、もっとうまくソフトランデイングできたと思うし、<社会主義>がかくも回復不能な汚名となることはなかったと思う。10の問題も「人間の顔をした社会主義」を経て、社会主義を名乗るだけの民主主義的混合経済体制に移行しえた可能性もあると思う。ゴルバチョフのペロストロイカ政策も最後まで成功していればそこに帰着したであろうが、ゴルバチョフの失脚は必然だったかという問題は、トロツキーの失脚が必然だったかということ同様、興味ある問題である。

17、現在の脱社会主義を標榜する旧ソ連や東欧諸国では、粗野な資本主義がむき出しになった社会だと思う。ゴルバチョフのようなバランス感覚のある有能な人物を支持する社会的基盤が出現しえてないことに現在のロシアの不幸がある。

18、マルクスの夢想した生産手段の共有・計画経済・直接民主主義による理想社会が出現しうる可能性は、環境・資源・エネルギーの壁を技術的に突破し、ほとんどの労働を自律的ロボットがこなすようになるほどの社会が出現したときはじめて可能かもしれない。しかし、それが<理想社会>かどうかは疑問だし、ロボットの反乱というSF的事態が出現するやもしれない。

19、にもかかわらずロシア革命は偉大な実験だったし、ベトナム革命は英雄的な偉業であったという事実は変わらない。無数のボルシェビクや解放戦線の戦士たちによって勝ち取られた成果と、<革命>のために無私の献身をし敵手に斃れた無数のトロツキストやゲバラたちの夢や情熱。そうしたものが、結局資本主義体制自体をよりリベラルなものに変えていく陰の原動力だったし、植民地の解放や、欧米帝国主義に惨殺された先住民の名誉回復にもどこかでつながっており、そうした意味においても貴重な人類の誇り・遺産であると思うし、そのためにも<社会主義>の名を捨てるのでなく、汚名から救いあげる努力を傾注すべきだと思う。

20、ぼくの思う<社会主義>は社会経済システムでなく(社会経済システム自体は基本的には民主的混合経済であろう)、そのシステムに果てしなく<自由、平等、協同>の理念を吹き込む運動のキーワードとしてであろう。別にそれをキーワードとする必要はないといえばなく、ぼくの個人的思い入れにすぎない。 ぼくの考える理想社会は、<自由、平等、協同>という、どこまでいっても最終的に達成するはずのない理想社会を追い求めることを市民が主体的に担おうとする社会である。自分自身の<価値観>を持ちつつ、それを押しつけず、多様な個人やグループの価値観と共生・対話が可能な社会、あえていえばエコロジカルな社会であろう。生産手段についてもすべて国公有する必要はないし、市場メカニズムにまかせることが合理的であろうが、それに対する環境・資源・エネルギーの面からの循環・共生という視点、非戦という観点、マイノリテイを尊重する地球市民といった理念からの積極的介入・制限も必要だし、すべての局面における情報公開と参加も必要だと思う。そういう意味で、体制を下から突き上げるとともに、自らも参画する主体としての市民を形成していく理念、旗印として<社会主義>はいまも有効だと考える。

しかし、最後にはいずれにせよ国民がどこまで世界市民たりうるかが問われているわけで、それに関しては悲観的たらざるをえないというのが、実際のところである。資源やエネルギーの観点から、世界60億人がわれわれと同様の<高度>な生活を保証できないならば、われわれの生活レベルをたとえば1/3(1/10でも当然であろう)に落とせるだろうか。われわれ人間もまた利己的遺伝子の乗り物(ヴィークル)に過ぎないのならば、文化とは文明とはそもそもなんだったんだろうかという思いがしてならないし、旧ユーゴの悲劇・惨劇がますますその思いを強くする昨今である。