環境漫才への招待

進化=深化する環境行政

はじめに

主宰の桑畑さんの寛大さに甘えてさぼっているうちにとうとうミレニアム。Y2Kは無事やりすごせたものの、九十年代最後の数年間で環境・廃棄物行政も大きな曲がり角を迎えたような気がする。

次号からは定期的に環境行政ウオッチングをお届けしようと思うが、今回はごく大雑把に筆者がさぼっているうちにおきた環境・廃棄物行政の変化について独断と偏見でとりまとめをしておこうと思う。

<前史>

大量生産・消費・廃棄システムからの脱皮、持続可能な発展、循環・共生社会の形成等が九十年代に入ってしきりに叫ばれるようになった。リオ・デ・ジャネイロで開かれた※国連環境会議(一九九二)、化石燃料と森林破壊に起因する地球温暖化防止のための※気候変動枠組条約(同年採択、一九九四発効)、循環・共生・参加・国際的取組みを謳い文句にした※環境基本法の制定(一九九三)、各種リサイクル法制の整備(一九九一の※廃掃法抜本改正と※リサイクル促進法制定、一九九五の※容器包装リサイクル法制定)、環境庁の悲願だった※アセス法制定(一九九七)、そして京都で開かれた※COP3(一九九七)でムード的な環境熱はピークに達した。

※ 国連環境会議:総理が国会のため出席せず国際的な笑いものになった。<持続可能な発展>がリオ宣言で高らかに唱い上げられ、行動計画(アジェンダ)も定められたが、南北間の利害衝突が露わになった会議でもあった。

※ 気候変動枠組条約:二千年には二酸化炭素の人為排出量を一九九0年のレベルにまで削減すると先進各国が申し合わせたが、経済生産システムがガタガタになった東欧、旧ソ連を除いてはすべての先進各国で守れなかった。日本もバブル崩壊後長い不況が続いたにもかかわらず十%近く排出量を伸ばした。赤信号みんなで渡ればこわくない。ちなみにIPCCというそのブレイン役を果たした科学者連合は二酸化炭素の濃度レベルを現状で安定させるためにはただちに二酸化炭素排出量、即ち化石燃料の使用を六割削減しなければならないと試算している。

※ COP3:同条約の第三回締結国会議のことで京都で開催された。迷走の末、ようやく「京都議定書」が定められた。二00八から二0一二年には一九九0年に比較して温室効果ガスをEU8%、米国七%、そして日本は六%削減するとしている。ただし、削減数量の算定方法等をめぐって細部が決まっておらず昨年のCOP5でも先送りされた。

※ 環境基本法:従前の公害対策基本法を発展的解消。自然環境保全法の理念法部分も取り込んだ。環境基本計画を定めるとし、翌年末閣議決定された。美辞麗句のいわゆる<お経の文句>であると筆者は酷評したが、日本型システムはしばしばこうしたものがボデイブロウのように効いて社会が変わっていく。

※ 廃掃法改正:目的規定に廃棄物の減量・資源化を盛り込んだ。この法律はこのあとも改正を繰り返し、一般人が読んでもほとんど理解できない難解な法律となっている。

※ リサイクル促進法:廃掃法改正と連動して定められた。正式名称は「再生資源の利用の促進に関する法律」。

※ アセス法:正式名称は「環境影響評価法」。七十年代前半から環境庁は妥協に妥協を重ね、骨抜きという批判を甘受しつつ再三法律制定に挑戦したが、産業界の反対で潰え去り、代わりに閣議決定に基づくアセス、いわゆる「閣議アセス」が定められた。閣議アセスによって事業計画が変更された例は一件もなくアワスメントだと酷評された。このアセス法は不十分ながら多くの点で改善がみられた。対象はやや拡大されたものの依然として国の関与する巨大事業に限られている。閣議アセスの適用されない大規模開発については、都道府県のアセス条例や要綱が適用されてきたが、やはりアワスメントの域をでなかった。こんごは条例や要綱の運用もアセス法に準じて改善されるものと期待される。なお環境アセスは個別のプロジェクトについての環境影響評価であるが、それに先行するプランや政策についての環境影響を評価するいわゆる「戦略的アセスメント(SEA)」について環境庁は虎視眈々と狙っているようである。しかし筆者はそれ以前に縦割り密室型の政策決定システムの変革、即ち、公共事業についての必要性・効果・コストパフォーマンスの市民参加型決定・評価システムの構築こそが必要でないかと思っている。

そうした動きをもちろん筆者は歓迎したが、しかし一方で、バブル崩壊以降の景気対策と称して、破滅的な赤字国債を乱発し、相変わらず右肩上がり経済の再現を妄想する成長・開発信仰を捨てられない限り、そうしたものは所詮はムードとパフォーマンス、お経の文句の域をでることはないだろうと醒めた目で見ていた。

もちろん今日でもそうした成長信仰は健在なのであるが、時代が大きく変わる予兆がでてきたというのがこの一、二年についての筆者の評価である。

<循環型社会形成とダイキシンー九十年代末期の動向>

COP3が終わると予想通りマスコミの地球温暖化熱は一気に冷めた。しかし※能勢事件(一九九八)や※所沢事件(一九九九)をはじめとするダイオキシン騒動は加熱する一方で、※環境ホルモンがそれに輪をかけ、マスコミの扇動的な報道もおさまる気配はみせりことなくミレニアムを迎えた。

※ 能勢事件:大阪府能勢町のゴミ焼却場周辺から前例のない異常な高濃度のダイオキシンが検出され、焼却場の労働者が高濃度曝露を受けていたことが明らかになった。テレビで見たところによると、米国の専門家は被害者を診察し、「こんな超高濃度曝露は聞いたことはない。明らかに犯罪だ」とし、被害者に対し「あなたは毎日無理矢理タバコを二箱吸わされ続けたきたようなものだ」といった。犯罪であることは否定しないが、毎日タバコを二箱吸う人は筆者を含め全国で何百万人といるのでないか?

※ 所沢事件:所沢には産廃処分場密集地帯がある。その周辺のホウレンソウから高濃度のダイオキシンが検出されたという歪曲された報道が「ニュースステーション」で流され大問題になった。

※ 環境ホルモン:NHKの造語。外因性内分泌攪乱物質というわけのわからないコトバに較べNHKのセンスは抜群である。欧米ではもうこの騒ぎは下火になりつつあるとのこと。この仮説に根拠がないことが明らかになったのでなく、この仮説が正しいことが明らかになったとしたら欧米型文明は崩壊するしかないことに恐れを抱きだしたのかもしれない。

筆者は本誌でかつて述べたとおり循環型社会への転換が急務であるが、ダイオキシンのリスクは数多ある他の環境汚染物質のリスクと同程度かそれ以下であり、しかもダイオキシン濃度はこの二十年間減少傾向にあるから、それほど大騒ぎする必要はないと評価したし、その考えは今も変わらない。だが、この非合理でパニック的なダイオキシン騒ぎこそが社会を大きく筆者の望む循環型に変える原動力になったというのが筆者の推測というか仮説である。

ダイオキシンパニックで一般廃棄物の中間処理、つまりごみ焼却場の新設に対する周辺住民の反対の声は大きくなったし、ダイオキシン対策のためのコストも馬鹿馬鹿しいほどかかるようになった。最終処分場の確保も地価下落にもかかわらず住民の反対で容易でなくなった。最終処分場の残余年数は八年余しかないという(八年すればパンクするわけでない。新規に最終処分場用地を確保すれば、延命する)。

残る切り札は海に面した市町村では海面埋立である。しかし陸のツケを海に押しつけるようなことがいつまでも許されていいわけがない。※藤前干潟や※三番瀬、※和歌山下津港の事例がそのことを先駆的に示したといえよう。

※ 藤前干潟:伊勢湾の中心部に工場地帯に囲まれて残された干潟で水鳥の最後の楽園。名古屋市がごみの最終処分場として埋め立てを計画。猛烈な反対運動にもかかわらず、埋立地の全面に大規模な人工干潟をつくることで強行突破しようとしたが、騒ぎは国際的になり、環境庁の最後通達により遂に一九九九にダウン。相変わらず日本は外圧に弱い。それに代わるごみの処分場はいまだ見付かっていない。筆者もいちど訪れたが、汚い海であり、埋め立ててもどうってことないと市が思ったのも無理がない(もちろん筆者は埋立反対であるから誤解なきよう)。

※ 三番瀬:東京湾の干潟。大規模な埋立計画に反対運動が噴出。藤前干潟の経緯をみて、大幅な縮小案を打ち出したが、反対運動は収まる気配はみせず、いずれ断念を余儀なくされるかもしれない。

※ 下津港:大規模な港湾拡張整備のための埋立を県が計画。住民に抜き打ちで地方港湾審議会を通過。景観破壊との反対運動が起き、国の港湾審議会で環境庁が景観面で異論を述べ、県は景観検討委員会を設置、計画を縮小することで事態の収拾を図った。縮小案で景観面では改善されたが、住民側はそもそも過大な需要予測に基づく必要性のない公共事業であるとし、住民不在の政策決定に激しく反発した。環境庁は矛を収め、計画は決定されたが、なお反対運動は続行中である。筆者は検討委員会のメンバーであったが、一旦白紙に戻せという筆者の意見は一顧だにされなかった。 つまり市町村は※逆有償の補填など少々コストがかかってもごみの減量化資源化に本気で取り組まなければならなくなった。

※逆有償:自治会などで古紙回収しても古紙価格低迷で、業者が有償では引き取らなくなってきた。

ごみの有償化も北海道伊達町を皮切りに方々で出現してきた。※RDF、※PFIといった施策をとりいれるところもでてきた。そしてごみ減量のため法の規定にもかかわらず※拡大生産者責任、つまり最終ユーザーが市町村民であってもその処理責任は市町村でなくごみとなった商品の生産者が負うべきであるという意識が自治体からもでてきた。容器包装リサイクル法におけるペットボトルの取り扱い(回収・運搬は市町村の役割とされた)について自治体からは不満が噴出したのである。

※ RDF:ごみ固形化燃料。可燃ごみを乾燥成形し燃料として使おうというもの。需要がとぼしく失敗例もかなりみられる。熱量の関係で良質な品質確保のためにはプラスチックごみ、紙ごみなどが必要不可欠で、分別・リサイクルという流れとは相容れない。ペットボトルなどは無理してリサイクルするよりもRDF化の方が経済的には合理的であるが、そもそもペットボトルのリユースをさせないこと自体が問題である。

※ PFI:民間活力導入手法。本誌でしばしば桑畑さんが述べられている。役所の公平性と民間の効率性を合体させるはずの第三セクターの無惨な破産の轍を踏んだり、役人の天下り先を増やすだけの結果に終わらなければいいが。

※ 拡大生産者責任:ごみの処理責任は市町村となっているが、ごみとなる製品の生産者の責任にしなければいけないという意見。もちろん筆者は大賛成である。

産廃も一廃同様困難な状況にある、というか状況はより深刻である。ここ数年産廃処分場をめぐって各地で住民投票が相次いだ。法の規定にもかかわらずダイオキシンパニックによる住民のエキセントリックな反対のために、法の要件を満たしていれば※委任事務のため許可しなければならないにもかかわらず、県も安易に産廃処分場の許可ができなくなった。

※委任事務:行政改革の結果、来年から「法定受託事務」に代わる。中身がどう変わるかは不知。 厚生省は住民を慰撫するために産廃処分場の三セク化を可能にし(一九九一)シュレッダーダストを※安定型から管理型に移行し(一九九五)、最終処分場の環境アセスと市町村長や住民への説明を義務づけ(一九九七)全産廃に※マニフェストを適用することとし(同)とブラックボックスにあった産廃処分を適正にし、スムースに行かせるための対策を矢継ぎ早に打ったが、そのことがやっぱり産廃はこわくて危険だという意識を抱かせ、ダイオキシン騒ぎがそれに拍車をかけ反対運動は過熱するばかりであり、各地で法的には無意味であるが住民投票が行われるようになった。産廃処分場の許可件数は例年百件は越しているというのに今年度上半期はわずか九件と激減。しかもその大半が自家処理場という。残余年数は三年、首都圏に至ってはわずか一年である。

※ 安定型・管理型処分場:産廃処分場は簡易な安定型と相当の対策の必要な管理型、徹底的な対策の必要な遮断型に別れる。シュレッダーダストが管理型に移行したと言うことは処理コストが一桁高くなることを意味する。

※ マニフェスト:管理証票。産廃の流れをきっちりと把握するために導入されたが、現場では抜け道がいろいろあるらしくどこまできちんと機能しているか。  政治・行政の世界は国民的パニックに対応せざるをえない。ごみ焼却場の規制強化を皮切りにダイオキシン規制が本格化、厚生省の※焼却場大型集中化方針や文部省の学校焼却場自粛通達など愚劣な方針が出されたが、それではおさまらずついに政府はダイオキシン閣僚会議を設置(一九九九)。

※大型集中化方針:ごみ焼却場の数を三分の一に減らして連続運転可能な大型化を目指す。  同会議は基本方針をだし、はじめて※定量的なごみ減量化目標を定めるに至った。そしてダイオキシン法の議員立法が成立、今年に入って施行されるなど※ダイオキシン規制はどんどん強化された。

※ダイオキシン規制:焼却施設などの発生源規制の拡大、強化。大気、水質、土壌の環境基準制定やTDI(耐用一日摂取量)見直し、測定法のJIS化等が相次いで行われた。

※ごみ減量化目標:十年後に一廃、産廃とも最終処分量を半減させるとしている。 こうした状況は否応なく産廃処理コストの高騰を加速させる。年末年始を騒がせたフィリピンへの産廃輸出事件がそのことを物語っている。 またヨーロッパ輸出のためやむをえずはじまった※ISO一四00一取得も企業パフォーマンスに利用するようになり、猫も杓子も1SOの認証取得に走り出すと、単なるパフォーマンスにとどまらず実質的なものとして競争せざるをえなくなった。

※ ISO一四00一:国際標準化機構の定める標準規格。製品規格からソフト面まで触手を伸ばし、九000では品質管理を規定。一四000シリーズは環境対策についてのもので、一四00一は環境マネジメントシステムを規定。この認証を取得しないと欧州への輸出は容易ではなくなるとして、輸出メーカーの工場をはじめとして取得ラッシュが起き、いまや日本は認証取得数は世界一。スーパーから自治体、金融、大学まで取得をするところが出てきている。このシリーズではエコラベル(品質表示)やLCA(ライフサイクルアセスメント、後述)の標準規格も定めようとしている。

いまや企業秘密であるとして猛反対してきた産業界も環境報告書などで未規制物質の情報開示を行うところがでてきて、それが※PRTR法制定(一九九九)につながった。

※PRTR法:正式名称は「特定化学物質の環境への排出量の把握等および管理の促進に関する法律」。環境への有害性が懸念される各種の化学物質についての使用、排出量等の報告義務を科するもの。公表をどうするか、都道府県の位置付け等で通産省と環境庁がぶつかったがなんとか妥協が成立した。 産業界も価格競争だけでなく、製品のエコ競争に勝たねば生き残ることがむつかしいような業界もでてきた。価格が高いにもかかわらず初のハイブリッドカー、プリウスが好調な売れ行きをみせているのがその象徴といえよう。 産廃減少・再利用=※ゼロエミッションやリサイクル可能な製品作りに設計段階から取り組まなければならない状況が生まれてきたのはそうしたことから必然的といえる。

※ゼロエミッション:ある工場の廃棄物が他の工場の原料となるような連鎖を作り出し全体として廃棄物ゼロを目指すという仕組みで国連大学が提唱。昔の日本は或る意味ではそうしていた。屎尿が肥料になっていたのだ。 なんらかの形で※LCAも日の目をみるであろう。

※LCA:製品の誕生(資源採掘)から死(廃棄)までのすべての段階でどれだけの資源・エネルギーを投入し、環境負荷をかけているかをトータルで評価するシステム。しかし、環境負荷といってもさまざまでありダイオキシンと騒音と水質汚濁と地球温暖化のどれを重視するかで結果はがらっと変わってくるのでないかという疑念が湧く。現在ISOで検討中。

※廃家電リサイクル法(一九九八)はさまざまな不備(処理費が消費者負担ということは不法投棄を誘発する)があるとはいえ逆流通ルートの認知で容器包装リサイクル法より拡大生産者責任は強まった。

※廃家電リサイクル法:正式名称は「特定家庭用機器再商品化法」。テレビ、エアコン、洗濯機、冷蔵庫の四品目が対象であるが、パソコン等品目数は増加していくであろう。処理費を販売価格に上乗せすることには業界が猛反対した。

ドイツを真似しての循環経済法、建設廃材リサイクル法(建設省)、有機性廃棄物リサイクル法(農水省)なども近々日の目をみそうである。いや、本誌が刊行される頃には成立しているかもしれない。かつて身体を張って反対した通産省も機をみるに敏であり循環経済ビジョンを発表した。企業にとってもその方向を模索せざるをえなくなったのである。パソコン業界でも年明けにリサイクルシステムの構築を宣言した。

※自動車税制グリーン化は不徹底に終わったが(一九九九)環境負荷税という流れは加速するであろう(筆者の私見では製品の逆流通による引き取りをしないのであれば、製品の環境負荷に応じて売り上げにかける税率は最大百%―それ以上の環境負荷を生むものは製造禁止―から0%までにすべき)。

※ 税制グリーン化:燃費のいいクルマや排ガス量の少ない自動車の税金を安く、そうでないものは高くするという税制。クルマに限らずすべてに適用可能である。従前環境税とか炭素税とかいわれていたものは地球温暖化のみに着目していたが、すべての環境負荷に適用すべきであろう。 上記のような変化を決定付けたのはダイオキシンパニックという見方ができる。いままでごみや産廃の処分場は用地の取得が比較的容易な農山村や郊外に押しつけてきたが、ツケを押しつけられた側の住民がダイオキシンをきっかけに反乱を起こしたと言っていいだろう。 廃棄物処理がスムースにできなくなれば世の中は糞詰まりになるし、処理コストは高騰してしまうから、廃棄物の減量化に社会自体が移行せざるをえなくなってきた。環境・廃棄物問題はもはや※エンドオフパイプ対応ではどうにもならなくなってきたのだ。

※エンドオフパイプ対応:出口対応。環境への排出直前の技術対策ですべての環境問題を解決できるという信仰は一日も早く捨てるべきである。 もちろんそうスムースに行くわけでない。企業にとって産廃処理価格は安ければ安いほどよく、割高でも優良な産廃処理業者に委託しようとするインセンテイブは市場原理からはまったく働かず、この不況で逆のベクトルが一層強く働くからである。したがって安価で請負い、手抜き処理をする悪質業者は跳梁跋扈するであろう。しかし、社会的信用を第一にする企業にとって基本的な流れはパフォーマンスではあれ環境重視である以上、産廃排出抑制に行かざるをえないと思われる。 バランスのとれた客観的な正論(筆者はダイオキンは大した問題でなく、成長信仰を捨て循環型社会に変えることこそが重要であると訴えてきた)は社会を変える力にはならず、国民を捉えたパニックこそが社会を循環型に変えようとしているというのがこの間のほろ苦い真実なのである。

だが、ダイオキシンパニックは社会を循環型に変えようとする原動力になったという事実は喜びとともに不安に駆り立てられる。

国民的パニックは戦争や民族差別の結果だが同時にそれを引き起こす原動力でもあるからである。コソボやチェチェンの惨劇がそのことを物語っている。

<循環型社会と景気対策>

さてそうした循環型社会への移行はまだ予兆にすぎない。景気対策・社会資本整備という名で従来型の公共事業がより一層大々的に展開されている。これは明らかに循環型社会形成の流れに逆行するものである。つぎにそちらを概観してみよう。

バブル崩壊で迎えた九十年代、日本経済は一貫して低迷しつづけた。そのため景気対策として道路だ港湾だ空港だと毎年のように公共事業のための巨額の補正予算を組み、その財源として赤字国債・地方債を発行してきた。二千年度政府予算案も数十兆円の国債を発行することにしている。いまやコストパフォーマンスが合いそうもなければ必要もない愚劣な大型公共事業が目白押しである。そのため国・地方併せての未来世代への借金は六百兆円をとうに越した。このままで行けばやがて一千兆円を越し一二00兆円に達するかもしれない。そうなれば幼児も含めて一人あたり借金は一千万円となる。そして預貯金等の国民の総資産は一二00兆円。つまり国破れて山河も資産も無しということになりかねない。 橋本内閣のときに行財政改革が叫ばれたが、財政改革はみごとに挫折。いまや破産に向けてひた走っているようである。 しかし、こうした状況にまったく未来がないわけでない。

先進国としては最後にアセス法が制定された。もとより環境アセスメントは公共事業を否定するものでないし、所詮は環境によりよい空港や道路、港湾をつくるためのツールに過ぎない。しかし、アセス法制定により従前の閣議アセスより早期にかつ広範な住民が意見を提出できるようになった結果として、法が本来要求している環境上の観点よりも、むしろそうした公共事業がほんとうに必要なのかどうかに論点が移行し、過大な需要予測や財政上の問題点が追求されるようになり、住民不在の政策決定システムへの異議申し立てを誘発させることになろう。先述の藤前干潟などだけでなく、※神戸空港や※吉野川第十可動堰など各地で続発する公共事業批判の経験はそれを裏付けていると筆者には思える。

※ 神戸空港:これだけの大都市で住民投票の直接請求が成功したのは驚くべきことである。自自公だけでなく連合も民主党も社民党もこの動きを圧殺した。筆者が環境庁で担当部署にいるとき反対を表明したときの圧力はすさまじいものであり、そのごも環境庁はよくがんばったが、阪神大震災で流れが変わった。しかし筆者はいまだにわからない。阪神大震災の復興で空港どころではないというのがふつうの感覚でなかろうか。

※ 吉野川第十可動堰:第十というのは地名。ここではついに住民投票条例が可決。本稿執筆時に投票結果が判明。投票率は有効とされる五十%を越し、反対票が圧倒的多数を占めた。

破滅的な公共事業の推進に批判的な動きはもちろんあるが、政党レベルではそれに代わる景気対策として減税等による消費拡大策を掲げている。しかし無理な消費拡大も循環型社会形成と相容れないことは自明の理であろう。循環型社会とはなによりも無駄なものは買わない社会の別称であるからだ。

政府は「長期エネルギー需給見通し」を発表したが(一九九八)相変わらず年二%成長の予測(というか願望か妄想)を前提にエネルギー需要はなお増加するとしている。 エネルギー抑制と公共事業批判を展開するいわゆる環境派の論者のほとんどもエコ産業への転換により経済成長とエネルギー抑制の両立は可能としているようである。もちろんそれが可能であればそんないいことはない。そのためにもバイオマスエネルギーや燃料電池などエコ技術の開発は最優先として進めるべきであろう。だが、筆者はそうした科学技術のブレークスルーだけに頼ってはいけないと思う。筆者には経済成長が必要不可欠であるという前提自体を疑うことこそが必要だと思えて仕方がない。 確かデンマークだったと思うが環境保全・循環型社会形成の国家計画を発表した。計画では二0一0年までにGDPは四、五%減少するとしたそうである。やはり真の循環型社会形成にはこれだけの覚悟が求められているのでなかろうか。「スモッグの下でのビフテキより青空の下でのおにぎりを」という新大隅開発反対運動のキャッチフレーズはいまなおなにがしかの真実を含んでいるのでないかと思う。 ちなみに「長期エネルギー需給見通し」に基づきわが政府はCOP3の公約を果たすためにエネルギー増加分を二0一0年までに原発二十基増設でまかなうという非現実的な政策を打ち出した。その矢先に「もんじゅ」や「ふげん」につづき、JCOが信じがたいような臨界事故を起こしたのも記憶に新しい。

さいごに

自然保護・公園行政においても自然公園施設整備費の公共事業化、地方分権の流れを受けた公園管理体制の変化や国立公園内の許可権限の県知事委任事項の撤廃、鳥獣保護法改正など重要な変化がここ数年つづいたが、もはや紙数は尽きたので、今回は省略する。

前半で述べた循環型社会への胎動と後半で述べた成長信仰からの脱却、その二つの流れが統合されたとき新たな社会への第一歩がはじまる。だがそれがほんとうに可能であろうか?

ミレニアム、期待と不安、希望と絶望の交錯する年明けである。

こうしたなか年末には省庁統合が行われる。環境庁は環境省になり厚生省の廃棄物行政を取り込むことになった。そのレポートを次号お届けすることにして久々の筆者からの反時代的?な便りとする。

(二千年一月末日)