環境漫才への招待

環境行政の人的側面―役所・役人生態学序説

晴天の霹靂のように森内閣が誕生。解散・総選挙も近そうである。循環型社会形成推進基本法等廃棄物・リサイクル関連法案六本が国会に提出が予定されているが、閣議決定されたものだけでなく、未了のものもあるさなかでの政変で、一寸先は闇の政治の世界であるから、まだ確定的なことをいうのを避けておこう。

環境庁から環境省への昇格に際して組織はどうなるのかは一応の決着は付いているが、各省との所掌範囲の調整の細部や、人事に関しては水面下の綱引きが未だ続いているようであるので、これについても論評はまだ早そうである。

 本号では環境行政に限らず、行政というものを理解するうえで必須の、しかしあまりメデイアで語られることのない、「国のお役所・お役人の生理ないし病理」を、筆者の経験を踏まえて概説しておこう。

警察官僚の不祥事が新聞を賑わせている。神奈川から新潟、埼玉。びっくりするようなお粗末な事件の発覚が続発しているが、つまりああいうことはオールジャパンで日常茶飯事であるということに他ならない。まあ、警察はちょっと特殊な世界ではあるけれど、農水官僚の腐敗事件も明るみにでた。汚職ではなく、補助金にからんだみっともない飲み食いのツケ回し事件である。数年前の大蔵に引き続いて、今回の警察、農水であるが、氷山の一角であることは間違いない。そこで役所の自浄努力にはもはや期待できず、いよいよ公務員倫理法が施行されることになった。とまあ、ここまではどんなメデイアも書いている。

しかし、多くは現象をあげつらうだけで、その構造の深部まで追求した論評はあまりみない。どこまで迫れるかはわからないが、筆者の考えを述べてみようと思う。そのまえにマスコミの粗雑ではあるが俗耳に入りやすい役人批判に反論しておこう。

(最近の役人は腐敗堕落したか?)

昔の役人は気概があり清潔だった、最近の役人は腐敗堕落したという論調で語られることがしばしばある。

気概はともかくとして、清潔さに関してはまったくのデタラメである。昔の方がもっとひどかった。非常識な接待、旅費の二重取り、餞別と称する民間からの多額の現金授与等々今の常識どころか当時の環境庁の常識からしても許されないことが、他省庁では横行していたといって過言ではないだろう。

※実例一:三十年ほど前、筆者が某県に出張に行き、翌朝迎えに来た県職員が筆者が自分で宿泊費を払ったのをみてびっくりしていた。宿泊費はもちろんのこと往復のキップまで県に手配させる例が決して稀ではなかったらしい。

※実例二:やはりこれも随分昔総理府に出向していたときの話。年に一度、慰労を兼ねた出張があるのだが、旅費をもらいながら出張に行かなかったキャリア連中がいた。それを恥ずかしげもなく吹聴していた。

※実例三:公共事業関係の某省に勤めた筆者の同級生は某県に課長で出向していたが、霞ヶ関に戻ってくるとき、関係業界からの餞別が合計ウン百万円だったといっていた。ちなみに同時期、筆者が鹿児島から霞ヶ関に戻ったときの餞別は上司、同僚の四人から合計二八、000円だった。

役所は決して特殊な社会ではない。日本社会を映し出す鏡のようなものである。

民間企業では接待は重要な営業戦略である。現在でも接待費は日本のGNPの三%を占めているという話もある。多くの家庭でもお歳暮お中元は欠かせない年中行儀であろう(筆者はしたことがないけれど)。

こうしたいわば接待文化、贈答文化のなかで役所だけが埒外にいられるわけがない。

高度経済成長期やバブルの時代、民間が派手な接待費を使い、一方お上意識が強かった時代であるから、役人のモラルも現在よりははるかにルーズだったし、社会も一定程度それを許容していたというのが真相ではないか。

ところが時代が変わり、企業もバブル崩壊後交際費をしぼっていくなかで、そうした時代変化に気付かず、先輩達のやってきたことをよりささやかにみみっちく真似した輩がひっかかったのだと思う。功なり名を遂げた先輩連中が、自分たちのしたことに口をぬぐって出す自粛通達に聞く耳もたなかったというのが真相であろう。

(接待文化の諸問題)

 さて、こういう<不正・腐敗>に対するスタンスで、どうしても気になることがいくつかある。

数年前まで、いや今日でも日本は或る意味で接待文化のなかにある。ところが役所は建前優先であるから、現行予算システムではトップクラスの官僚以外には交際費は認められていない。しかし一方にはそれが必要な現実があり、そのためにウラガネつくり(※)だとか自治体や団体へのつけ回しが行われたりする。こうしたことはこっそり行われるから、それに便乗して自分だけがいい思いをする連中がでてくる。筆者はまず世間に公開して恥ずかしくないようなことに関しては予算化しオープンにすべきだと思う。これが第一点。

※実例四:筆者が大気保全局にいるとき、いろんな先生方を訪問し、無知な筆者にアドバイスをしてもらった。手ぶらで行くのは気が引けるから安い酒を手土産にした。その当時はすでに課のウラガネなるものは一切なかったから、当初は自腹を切っていたが、のちに業務上作成した調査報告書を市販し監修料をもらい、それを自分の係の財源とした。現在でも白書等の市販本の監修料はだれがどう管理しているのか必ずしもオープンにされていない。違法とはいえないが、すっきりしないものが残ろう。

つぎにA級戦犯とB級C級戦犯の別をはっきりさせるべきだと思う。はっきりいえば接待は好きではないが職務上必要だと考え、当時の常識の範囲内での接待をしたりされたりした人間と、接待を強要したり、接待を名目に個人的な飲み食いまでそれで支払っていたような連中とをはっきり区別すべきだと思う。これが第二点。(※)

※これに関連して、当時のウラガネを現在の管理職がポケットマネーで毎月定額補填させられているケースをよくみかける。当時まったく関与してなかった人間が管理職になったばかりに自分になんの責任がないのになぜ払わなければいけないのか? たとえ退職していようと関与の度合いによって応分の額を支払わせるべきでないのか

 また、日本はマスコミに取り上げられると極端から極端に振れてしまう。役所で酒を飲むことが咎められると(※)、こんどは御用納めも御用始めも酒を飲まず平常勤務だという指示がくる。要はバランス感覚が欠如しているのでなかろうか。

※省庁の記者クラブでは毎日昼間からマージャンをしていたし、酒盛りをしょっちゅうしていたのは霞ヶ関の役人ならだれでも知っている。

※いま、役人は県や団体から講演を頼まれても一切金品は受け取ってはいけないことになっている。筆者が水質規制課長のときはしばしば講演を頼まれた。講演料などもちろん自分から要求しないが、クルマ代として謝礼(多くは一、二万円)を受け取ったことはよくあった。そして半額を課の親睦会に寄付していた。一回の講演でウン十万円受け取ったり、講演は名目でじつはゴルフや宴席でバカ騒ぎというのは犯罪行為であろうが、筆者程度のことまで禁止すべきことであろうか。講演の資料づくりなども結構時間と手間がかかるのに薄謝もなしということになると、講演しようと言う気も起きないし、第一、講演を頼む方も二の足を踏むだろう。こういうことは、かえって国民のためにならないと思うのだが、いかがであろうか。

(接待とウラガネ―環境庁の場合)

 さて、わが環境・廃棄物行政はどうであろうか。厚生省の水道廃棄物行政は知らないが、環境庁に関して言えば、漏れ伝え聞く他の省庁に比して、おそろしく清潔であった。もちろん接待が皆無だったわけではない。しかしささやかなものが年に数回あるかないか程度で、ノーパンシャブシャブも向島の料亭も銀座のクラブにもまったく無縁であった。別に環境庁の職員が清廉潔白なのではない。要は誘いがなかったのである。カネ(予算)とチカラ(権限)のないところには誘惑などないのである。逆に言うと、環境庁は、厚生省の公害部局と自然公園部局を中心に、各省の環境関連部署をかきあつめて成立した省庁であるが、そのときいささかでも旨味(カネ、チカラに加えてヒトー天下り先―を加えてもよかろう)のあるような部署を決して各省は手放さなかったのである。

かといって環境庁は真っ白ではない。それどころか昭和五十四年だったと思うが、環境庁はカラ出張事件で派手にマスコミに叩かれたことがある。しかし、逆説めくが、環境庁にはつけ回しできるところがなく(※)、カラ出張でしかウラガネを作れなかったのである(※)。

※実例六:筆者が水質規制課長のとき、酒乱で有名な某局長が管理職連中と飲みたいので一席設けろと庶務に指示したが、庶務はそんなカネはありませんと拒否した。その局長はじゃ俺が自分でやるといいだし、筆者もいやいや出席した。自分の出身省庁の関連団体につけ回ししたのだ。

※実例七:これには苦い思い出がある。この頃は自然保護局にいたのだが、管理事務所長に実質的に許認可権限を下ろしたいと筆者がいいだし、二三ヶ月徹夜に近い状況でがんばったことがある。当然法律屋を巻き込まなければいけない。ようやく一件落着し、打ち上げということで世話になった法律屋を居酒屋でポケットマネーでもてなそうとした。ところがときの課長がそのことを聞きつけ、そんなときのために各課にウラガネがある、庶務に言っておくから小料理屋を使えという指示があった。「接待」の数日後環境庁の他の部局のウラガネのことが大々的にマスコミに取り上げられ、庶務からあれはもう払えなくなりましたとの詫びが入った。泣く泣く自腹を切ったのである。なお、この事件でわかったことは庶務がウラガネつくりをやるが、きちんと帳簿を作り、納得できる使い方しかしてないマトモな担当者だけでなく、自分のポケットマネーと勘違いしてデタラメな使いかたをするものもいたということである。これが同罪というのは筆者には不条理としか思えない。

(役人は多すぎるか)

もうひとつ、マスコミには日本は役人が多すぎるという論調が目に付くし、すべての政党も役人減らしを公約している。ほんとうに役人は多すぎるのであろうか。

なかには米国に較べて国家公務員の数が多すぎるし、フランスに較べて地方公務員の数が多すぎるなどという我田引水の論も目に付く。米国は連邦制国家だから中央集権の日本に較べて連邦公務員の数が少ないのは当たり前だし、フランスは超中央集権国家だから地方公務員の数が少ないのは当たり前である。問題は公務員全体の国民に対する割合である。いわゆる役人に関して言うならば、すべての先進諸国のなかで、極端な行革をやり話題になったニュージーランドに次いで、日本は公務員が少なく、国民あたりの役人数は他の先進諸国の総じて二ないし三分の一なのである。つまり日本は役人のきわめて少ない国家なのである。こんなことはちょっと資料を調べればすぐわかることである。

だからこそ、阪神大震災のときもJCOの臨界事故のときも銀行の粉飾決算のときも、何か事件が起きるたびに、チエックする人間が米国に較べて極端に少ない(どれも一桁以上少ない)といって叩かれるのである。

日本が公務員が少ないのは江戸時代以来の伝統である。江戸の町百万人の治安を預かる正規の警官、裁判官、つまり与力はわずか二十四人だったし、幕府は教育にはまったく無関心で文部官僚なるものは一人もいなかったにもかかわらず、寺子屋が盛んで識字率は群を抜いて世界一であった。つまり大半のことは町民の自治に任せていた。現在でも回覧板のようなシステムが一定程度機能しているのはその表れである。サラリーマンの税金は天引き制度で税務職員の数は少なくすませているし、業界団体の長に根回ししておけば、あとは業界内部で適当にやってくれるという体質。じつはこうした談合体質、護送船団方式が通用しなくなってきており、一方では回覧板を回してこと足りてきた旧来型の地域コミュニテイが都市化、高度成長の過程で崩壊寸前にあり、かといって欧米型のNPOやボランテイアも根付かない。

こんなときに、役人の数減らしをこれ以上考えることは自殺行為であるとしか思えない。

もちろん、暇そうでろくな働きもしないくせにえらそうにしている役人がいっぱい目に付くことは事実であるが、問題は役人の使い方である。必要なところにはどんどん数を増やし、不要なところはどんどん減らすとともに、もっとフレキシブルな使い方を考えねばならないのでなかろうか。自衛官などは来てはこまる有事のときに備えて訓練するだけでなく、週の半分は役人と兼務させるぐらいの大胆な発想が必要であろう。

ところがわが政府は行革といっても、省庁や局の統合と人数減らしを省庁に一律に割り振る(第○次定数削減計画)ようなことしかしていないのである。省庁や局の数を減らすことは事務次官や局長の数を何人か減らす程度の効果しかなく、一方では弊害も多い。迅速な対応ができなくなるからである。(※)

※実例八:昭和六十一年、鹿児島県も行革を行った。一部一課削減ということで、環境局は廃止、原子力安全対策室は独立室から課内室に格下げ。局長に代わり環境審議監が、室長に代わり原子力安全対策監が設けられたが、決裁権も議会での答弁権も持たせなかった。以前なら問題が起きれば即座に局長と相談して対応が取れたのが、行革により迅速な対応が取れなくなった。この行革になんの意味があったのか? 当時の新聞は環境局の廃止に批判的だったのにである。ちなみに、みな唯々諾々とこの行革案を受けたのに対し、真っ向から抵抗したのが当時の環境管理課長の桑畑さんであった。

行革の真骨頂は権限の大胆な下部委譲であり、その際誤った判断をしたり不正をしたリーダーや、そうしたリーダーを任命した者に即座に相応の責任をとらせる仕組みをつくるべきでないだろうか。ではそれがなぜできないのだろうか?

 その宿痾の根源にメスを入れてみたい。

(お役所の人事システム)

省庁別、職種別採用と人事評価・昇進、ポストのジッツ(縄張り)化と法文系キャリア絶対優位、早期退職=天下りといった人事に関する現行システムをみてみよう。

国家公務員は決して国家や政府に採用されるのでなく、各省庁ごとに採用されていること、同じ行一(行政職(一)俸給表適用職員、いわゆるお役人はほぼこれに該当する)であっても「T種」(旧上級職、広義のキャリア)「U種」(同中級職)「V種」(同初級)の別があること、さらにさまざまな職種(「T種」の場合は「法律」「経済」「土木」等27種類の職種がある)があり、大きく事務官と技官に大別されることは多くのかたがご承知であろうが、具体的な内容を知っている人は少ない。

それを環境庁を例にとって具体的に眺めてみよう。

(環境庁の人的構成と人事システムーシマの世界)

建前上は環境庁も長官を頂点に単一のピラミッドを形成している。しかし人事という観点からみると、実態は大きく異なる。あえていうならばピラミッド自体がいくつもの非公式な小ピラミッドから形成されている。この小ピラミッドをシマとかムラと称する。すべての省庁はこのシマの複合体といって過言でないのだが、環境庁の場合はつぎのようになる。

環境庁の行政職(行一)には大きく分けて法文系キャリア(「法律」「経済」「行政」)、レンジャー(自然保護系技官で「造園」職が圧倒的。ほとんど「T種」だが一部ノンキャリ技官を含む)、公害系技官(プロパー技官と称する「物理」「化学」職を中心とする環境庁採用技官と、「衛工」(衛生工学の略)と呼ばれる厚生省水道環境部と二重国籍を持つ「土木」職技官(※)に大別される。すべて「T種」)、それに事務系ノンキャリの四つ(プロパー技官と衛工を分ければ五つ)のシマがある(このうちレンジャーと衛工、ノンキャリ事務官は当初は環境庁への移籍組からなり、徐々に環境庁創設以降の採用組が増えてきて、ようやく大多数が環境庁採用組になった)。環境庁はそうした移籍を含めた広義のプロパー職員と相当数の他省からの出向組により構成されている。

※衛工グループは一括して厚生省(水道環境部)採用になるが、即日環境庁に出向する組と厚生省に残る組に分けられる。そのごも頻繁な相互の人事交流は行われるが、前者は事実上本籍は環境庁といっていいだろう。こんどの行革で水道環境部が消滅し、水道だけが厚生省に残るので、名実共に衛工グループは一括して環境庁に移籍するといっていいだろう。

局―課という行政上の単位組織はそれらの混成部隊からなるが、技官に関して言えば自然保護局はレンジャーの牙城で、公害系技官の拠点は大気保全局、水質保全局という棲み分けができている。

事務次官以下すべてのポストはどのシマのものか不文律として決まっている。もちろん環境庁創設時はすべてのポストが出向・移籍組であったが、そのご下のポストから徐々に環境庁採用組に置き換わってきている。しかし、まだ出向組のポストは多く、局長級はすべて出向組である。なお、補佐や係長級でも専門性や人数の関係から、他省庁からの出向ポストも依然かなり多く見られるが、それはそれで貴重な戦力だし、プロパーにしばしば見られる独善性を中和する意味でも、環境庁シンパを他省庁につくっていく意味でも、プロパーだけで構成するより、よほどいいといいのいうのが筆者の評価である。

幹部のシマを見てみよう。

まず事務次官は厚生省と大蔵省の法文系キャリアが交互になる。ただし、突然事務次官になるのでなく、官房長(大蔵、厚生)または自然保護局長(厚生)から必ず企画調整局長を経ることとされている。大気保全局長は厚生の医系技官、水質保全局長は農水の法文系キャリア。

中二階(部長級)は審議官のうち一人が通産技官、もう一人の自然保護局担当がレンジャーで地球環境部長が衛工技官。環境保健部長は長らく厚生の医系技官であったが、ようやく環境庁一期生の法文系キャリアが奪取した。

ちなみに、レンジャー及び公害系技官の最高ポストは前述のとおり、自然保護局担当の審議官と地球環境部長であるが、いずれも移籍組であり、環境庁一期生は出世頭がようやく課長ということで、他省同様法文系キャリアの優位は明らかである。また、ノンキャリ事務官は課長ポストが一つあるのみで、このポストはなお六、七年は移籍組であろう。

官房長―秘書課長ラインが人事の担当であるが、事実上は法文系キャリアの人事を所管するだけで、それ以外の人事や処遇はー枢要ポストを法文系キャリアがほぼ独占している見返りとしてーそれぞれのシマに基本的に委ねているし、天下り先の確保までシマごとの責任で行われていることが多い。つまりシマのトップがシマ内の事実上の人事権を有しているし(※)、他省からの出向者に関しては環境庁は一切の発言権を有していない。

※前述のプロパー技官はいまのところ一期生がようやく課長になったところであり、衛工とシマが完全に分かれているとはいいがたい。中二階がトップの衛工の自治領といったところであろうか。

以上、縷縷シマについて述べてきたが、筆者自身はシマという発想は大嫌いで、そういうことは一切考えずに人間関係を構築してきたという自負があるし、それが財産でもある。筆者に限らず、多くの役人諸兄も個別の人間関係に関してはシマがどうとかにこだわらずに付き合っているということは付け加えておいた方がいいであろう。

(自浄システムとシマ抗争―岡光とエイズ)

 さてこういう強固な不文律である法文系キャリア優位のシマ・システム(どんな意味でも正当化しうる法的根拠はなにもない)はどういう結果を招くだろうか。

有名な岡光事件を考えてみよう。厚生事務次官だった岡光は厚生省法文系キャリアのトップで人事権者である。人事権を握られている法文系キャリアがどんな良心的な人間であっても、岡光の悪事を諫めることは極めて困難であろう。正義感に駆られて諫めても飛ばされるのがオチ、それよりはできるだけかかわりあわぬようにして(勇気が有ればたれ込んで)、悪事が露見した岡光およびその一派が失脚してそのポストが空くのを待った方が賢明であろう。なぜなら空くポストは法文系キャリアの指定席だからである。したがってシマ内部に自浄のためのシステムは存していない。

自浄システムを内部にビルトインする唯一の現実的な手段は、不祥事を起こした者のポストはすべからく他のシマで埋めることである。となればそのシマの部下も必死に諫めるにちがいないでないか。

 ちなみに岡光事件はエイズの余波だという噂がある。薬務局の生物製剤課長(医系技官)が責めを一身に受けたが、当時の局長(法文系キャリア)は自分は素人でかれにすべてを任せていたからなにも知らないし、責任はないとうことで逃げ切った。部下の責任は自分の責任であると大見得を切ることすらできないくせに、局長としてふんぞりかえっていた卑劣な法文系キャリアに対する医系技官の報復として、岡光がたれ込まれたというのである。辛口評論家として知られる佐高信はそもそも生物製剤課長を苦境に追い込んだのは法文系キャリアでないかという。目の上のタンコブ、医系技官を陥れるために仕組んだものだというのである。いずれも本当かどうか知らないが面白い話ではある(なお、「薬学」職の技官もいるのであるが、かれらの最高ポストは薬務審議官。厚生省で唯一局長ポストを有している技官のシマは医者グループだけである)。

(専門職と総合職)

岡光の後任は法文系キャリア以外からというと、技官は専門職だからできないという声が聞こえてくる。そんなことはない。そんなことをいえば法律職の人間は法務省か警察庁しかトップになる資格がないはずである。たかだか、大学の後半二年間で学んだ法律や技術などどうっていうことはない。事実技官の仕事もその大半はマネジメントであり、調整だからである(※)。筆者も造園職のはしくれであったが、「造園」に関する専門的な知識はないに等しいし、役人生活の後半は「造園」と縁もゆかりもないところばかり歩んできた。それに技官でなくノンキャリ事務官だって有能であれば構わないでないか。

※かつては例えば技官が自ら設計図を書き施工も行うということもあったが、現在ではそうした専門技術に関わる分野は大半が外注・委託・請負等で行われている。しかし都道府県においてはやや事情は異なる。技師(県では事務官、技官といわず主事、技師という)が自ら設計業務や立入検査や採水・分析等を行うことが少なくない。

もっとも専門職がいらないというのでない。一般論としてはどの職種であったにしても、本人の志向と適性を踏まえ、専門性を最優先させる「専門職」と、幅広い知識とマネジメント能力を持った「総合職」に分化させること、前者は特定領域に深い見識のあるスタッフ職として、ラインを司る「総合職」に劣らない処遇をすることが必要となろう。

(役人のロイヤリテイ)

さてこうしたシステムでは役人のロイヤリテイの対象はどうなるのであろうか。ふつう考えれば、出身省庁であり、自分のシマということになりそうである。しかし多くの場合はイエスであり同時にノーである。日本の役人の生き甲斐は、現在所属している組織での評価であり、それは組織の権限や予算、人員を伸ばすことだからである。

よくマスコミでは、環境庁がダメなのは他省からの出向者が多く、かれらは出身省庁にしか目が向いてないからだ(※)という俗説がある。まあ、そういわれても仕方のないような連中がいるのもウソではないが、多くの場合は事実と異なる。出身省や自分のシマの本家組織に弓を引いてでも、現在の組織に忠誠を尽くすことが、或る意味では役人の本能だし、結果的には、そのことがそのポストを出身省や自分のシマでひきつづき維持させることにつながり、ポストの維持拡大を至上命題とする出身省庁やシマにおいても評価されることになるからである。

※ちなみに筆者までが出向組(厚生省)にカウントされたことがある。たしかに厚生省採用ではあるが、厚生省国立公園部は組織ごと環境庁に移籍(自然保護局)したのであり、もはや厚生省に帰るところなどはありはしないのにである。移籍組はプロパーの一部なのである。

問題は、このシステムでは国民にとってさして意味がなくなった組織や予算であっても、中にいる役人自らが削減しようとするインセンテイブがまったく働かないことである。

(「休まず遅れず働かず」は本当か)

 さて、「休まず遅れず働かず」という公務員を揶揄するコトバがある。しかし、出先機関はいざしらず、霞ヶ関では「遅れず」以外はまったくのウソである。「遅れず」どころか正規の時間より数十分遅れることは常態であるし、事実上の昼休みも長いが、そのかわり夜はエンドレスで、午前様も珍しくない。もちろん超勤手当は打ち切りであるから、まるで割に合わない。有給休暇も二十日あるものの、ほとんどが五日から十日程度しか消化していないであろう。夏に連続して長期休暇をとるよう指示が来るが、出す方も本気でとらせるつもりはない。事実、夏は各省予算要求の時期だから五日も十日もとれるわけがない。クリスマスは大蔵査定の時期である。筆者も霞ヶ関時代はいちどもクリスマスをじっくりと祝ったことがない(まあ、クリスチャンではないからあたりまえであるが)。もうひとつはこういう生活を何年も何年も送っていると、休んでもどうして過ごして良いかわからなくなってしまうのである。

 問題はその仕事の中身である。各省協議でテ・ニ・オ・ハをめぐって徹夜するとか、国会の想定問答つくりで些細なことでなんども書き直しするとか、どうでもいい仕事が多すぎるのは否めないが、それにしてもほんとうによく仕事をする。ヒマと思われたくない、無能と思われたくないという「恥の文化」が根底にあるからであろう。

もちろん、昼間ろくに仕事もしないくせに、さっさと定時に帰る輩もまれにいる。そうしても給料はちゃんとでるし、途中までは人並みに昇進するし、定額の残業手当もでる。しかしかれらはまちがいなく周囲の白眼視に耐えなければならない。私見ではこういう連中が数%のうちはいいが、一、二割を越すと、こうした日本型滅私奉公スタイルは急速に廃れるであろう。これをして悪貨が良貨を駆逐したということになるかどうかは定かでないが。(パリで客死した厚生省の医系技官で、「お役所の掟」を著した宮本某などはこういう滅私奉公・横並びスタイルを罵倒し、徹頭徹尾拒否しつづけた。著書自体は面白かったが、このての人物がもし自分の部署にいたらと思うとゾッとする)(※)。

※某省からの出向者でこのての人物を部下に持ったことがある。毎日顔をみるたび胃が痛く、秘書課に言っても出向期間が終わるまでガマンするしかないと取り合わない。ルール違反は承知の上で某省の人事担当者に直訴しにいった。「ああ、やっぱりダメですか。ひょっとして環境庁さんならと思ったんですが…」との回答に愕然とした。知っていて環境庁に出向させたのだ。さすがに後任にはマトモな人物を出してきたが。

(天下りの構図)

天下り問題にも一言触れておこう。事務官、技官を問わずキャリアは勤続二十五年かつ五十歳になれば、後進に道を譲るということで肩たたきが始まる。公務員は当初薄給だが、四十代半ばになり管理職になるととんとんと給料(というか手当)があがりだす。そうなれば数年後にはやめねばいけない。しかしこれは民間や財団法人、特殊法人といった公的団体のような天下り先があって始めて機能するシステムである。

役人が予算や権限の拡大に奔走し、法律つくりや団体つくりに励むのは、それが国家のため国民のためと思い込んでいるのは事実であるが、同時にこうした受け皿つくりに資するという側面もある。

昨今のように、天下り批判が激しくなると、この二十五年五十歳という肩たたきシステムも危うくなってくる。環境庁のようにもともと予算も権限も少なく、民間との接点が少なく、自前の団体も脆弱なところでは、より深刻である。出身省庁が面倒をみる次官・局長クラスの高級官僚以外は、天下りすることで給料は大幅ダウンしてしまっているのが現状で、天下りという語感とは大きく隔たったものがある。いずれこのシステムも見直し必至であろう。

(環境庁の特異性)

以上、環境庁を例にとって役所・役人の生態学を論じてきたが、他省庁と大きく異なる点があることにも留意すべきであろう。

第一点はT種試験合格者、いわゆる広義のキャリアが異常に多い集団であるということである。通常行政職(行一)ではノンキャリ二十人にキャリア一人の割合らしいが(警察はもっとすさまじいーいわゆる警察官は大部分が都道府県警に属するノンキャリ地方公務員で、警察庁キャリアが出向してそのトップになる構造だから当然といえば当然だがーというのは先刻ご承知のとおり)、環境庁ではほぼ一対一である。つまりキャリアといえど泥臭い仕事や地味な作業を山ほどこなさなければならないということであり、またノンキャリもキャリアと一対一で接することが多いから、そういう意味ではノンキャリとの相互理解、親近感は他省より必然的に深いのでなかろうか。お粗末なキャリアよりは優秀なノンキャリの方が昇進が早いという革命的な先例をつくるのに相応しい役所である。

第二点は都道府県の環境部局との関係である。自治体の役人が霞ヶ関に出張する場合はあらかじめアポをとり、国の課長補佐に対しては県の課長、係長に対しては課長補佐が対応、それも県の方は立ったままということが多いと聞く(※)。環境庁では通常アポなしで行っても椅子に座らせてくれるし、県の係長に対して環境庁の課長が話することもいくらでもある(まあ、この辺は個人差があるが)。逆にいうと、環境庁は手足がなく、予算も権限も小さいからーだから県のポストもほとんど持っていないし、持ってもランクがぐっと落ちるー、県の環境部局に指示するのでなく、お願いすることが多く、そういう意味では上下意識よりも仲間意識が強いからなのだが、この点は地方分権の時代、他省庁もぜひ見習うべきでなかろうか。

※実例九:筆者が県の原子力安全対策室長を兼務していたとき、環境庁へ行くのと同様の感覚でふらっと通産省の原子力担当課に顔出ししたのだが、まさにこの通りの対応で椅子に座らせて貰えず、課長と挨拶さえさせてくれなかった。

(さいごに)

さて、前述した「お役所・お役人の生態学」であるが、こうしたことはなにも役所の専売特許でない。大なり小なり日本の企業と相通ずるところがあるのでなかろうか。こうしたやり方が高度経済成長を可能にしたのだが、右肩上がり成長が望めなくなった今日、限界というか制度疲労の極に達していることは否めない。

だからといってそれに代わる理想的な人事システムがあるわけでない。英仏はもっと極端なエリート=キャリアシステムだし、米国では大統領が代わると幹部官僚が一斉にクビになるという政治指名システムであって、到底日本のシステムに取って代わる素晴らしいシステムだとも思えない。

ゼロ成長、少子高齢化時代を迎えて、新しい人事システムはいかにあるべきなのであろうか?

 こうした目でさまざまな施策をとらえる視点も一方では必要であり、環境行政も決してその例外でない。環境庁の出した法律や施策、その背後にどんな人間ドラマが繰り広げられたか想像の羽を広げるのも、春の夜の夢の一興でなかろうかーというところで本稿を終えることにしよう。

(平成十二年四月十日)