環境漫才への招待

キューバ環境紀行

今号は九月に行ってきたカリブ海の小国キューバの環境紀行を掲載する。日本の一九五〇、六〇年代を思い浮かべながら、読んでいただければ幸いである。 

なお、筆者はゼミ生の某君との対話を「環境行政ウオッチング」と題する小稿にまとめて本誌に連載してきたが、この春以降某君が消息を絶ったので、中断してきた。ようやく消息がわかり、来号からは「環境行政ウオッチング」が再開される運びとなったことをご報告しておく。

(はじめに)

今年の五月、突然大阪のUNEP支援法人「地球環境センター」(GEC)から相談したいことがあるとの電話が入り、そして某日、専務理事自らが来校された。

要は国際協力事業団JICAの途上国研修の国別特設コースを作りたく、その第一号としてキューバを対象とすることが決まった。GECがそれを受託することになったのだが、そのための運営委員会のメンバー、というか委員長を引き受けてほしい、また夏にはそのためキューバへ行ってほしいというものである。  

筆者は大の英語嫌い、非国際派、反グローバリゼーショニストであるから、通常は海外案件はお断りするのだが、キューバとなると話は別である。それに英語は必要無く、スパニッシュオンリイで、通訳も準備するというから、政治的な意図や背景もあまり考えずに引き受けることにした。  

筆者にとって、キューバ革命は青春のカタルシスであった。もちろん、革命キューバがある意味では非民主主義的な統制社会であることも承知しているが、それでも革命の立役者でありながら、新たなる革命を求めてボリビアの密林で斃れたチエのことはあまりにも強烈な印象を残した。そんなキューバを一目見たかったのである。  

さて、なんどかの会議を経て、いよいよキューバへ行くことになった。具体的な研修コースの設定のための調査・打ち合わせである。(大枠はすでに決定。五年間毎年十人を受け入れる。二週間の環境マネジメントのコアコース+毎年設定されるニ週間のテーマ別コースという四週間コースである)  

GECからは環境庁から出向している、才媛の誉れ高いF女史も行くことになった。生後半年の赤子をご夫君に預けてであるから(ご夫君は関西の某私大教授であるが、元・環境庁でもある)、そのバイタリテイに感激ものである。あとは事務局としてJICA職員O氏も同行する。   

九月二日に関空を出て、ロス乗換でメキシコ一泊。JICAメキシコ事務所へ寄った後、通訳さんと一緒にキューバに。ハバナでは各種機関と専ら会議、そして視察だが、土曜の午後はバラデロという保養地に足を伸ばせることになった。そして一一日ハバナを発ってメキシコ一泊後、帰国というスケジュールである。  

JICAからはすでに古屋さんという人が企画調査員ということでハバナに派遣されており、向こうではずうっと一緒に行動することになる。また、すでに行われた夏の「途上国環境マネジメント研修コース」でキューバから参加された、ジャズ歌手のような図体風貌の黒人女丈夫メルセデスさんと村夫士然としたフストさんという二人の科学技術環境省CITMAの幹部が、向こうでのカウンターパートナーとなるという話であった。  

ここでキューバを概観しておく。  

キューバはカリブ海に浮かぶ日本やニュージーランド同様の細長い島国だが、面積は日本の三分の一、人口は同じく日本の十分の一である。一人あたりGDPは日本の数十分の一であろう。  

一九五九年、カストロらがバチスタ独裁政権を打倒して革命政権樹立。以降、米国との関係が悪化し、いわゆる東側陣営に属するようになり、ソ連の援助を受ける。一九九〇年代に入ってソ連が崩壊、以降苦しい国家運営を強いられている。首都はハバナで旧市街はハバナ湾に面している。湾は面積五、二平方キロの狭い水路で海とつながる閉鎖性の強い内湾で、天然の良港となっているが、近年その水質汚濁、油濁が喫緊の環境問題になっているようである。  

貧しい国だが、教育、医療水準に関しては途上国の中でも傑出しており、貧富の差もちいさいといわれている。通貨はペソであるが、外国人は米ドルしか使えない。外貨獲得のため観光にも近年力を入れているが、外国人に対しては物価も高い。言葉はスペイン語。人種は黒、白、混血で差別のようなものは一切ない。工場はすべて国営で、石油公社等各省に属する各種公社が運営している。  

といったところであろうか。

九月二日 関空―メキシコシテイ

空港にはすでにF女史、O氏、それにメキシコまで別用で同行するJICAの坪井氏とすでに全員集合していた。われわれが大きく頑丈なカバンだったのに、F女史は小型の布製のバッグ、さすがに旅慣れた国際派はちがうな、といささか大仰な自分のカッコが恥ずかしくなった。O氏はどういうわけかハリケーンの話ばかりしている。ハリケーン恐怖症であろうか。  

ビジネスシートということで、VIPルームで門出を祝しての乾杯。機内の席は全員バラバラで、F女史が話し相手、飲み相手になってくれるだろうという期待ははやくも打ち砕かれた。前日買った小型のスペイン語会話必携を一応取り出すが、三十分と持たず、あえなく、挫折。あとはひたすらアルコール漬け。筆者は枕が替わると眠れない繊細な感性の持ち主なので、結局ロスまでほとんど眠れなかった。  

ロス到着。ここでメキシカン航空に乗り継ぎなのだが、出発時刻は二時間も遅れ、はや前途に暗雲が立ち込めるかのようだった。  

メキシコ空港到着。到着は22時30分と、随分遅れた。ところがどういうわけか荷物が待てど暮らせど出てこない。空港係員は英語がしゃべれず、O氏や坪井氏に任せるしかない。結局、なにかのアクシデントで荷物が搭載されなかったみたいで、到着すればホテルに届けるということになった。  

それやこれやでホテル到着は0時近くになった。幸い、レストランバーが開いていたので、遅目の夕食後部屋に入る。  

このホテル・マリアクリスチーヌはいいホテルだとO氏に聞いていたのだが、部屋にはエアコンもなければ、冷蔵庫もなく、国際電話もできないという代物だった。  

ベッドでようやく寝付いた頃、O氏から電話で叩き起こされる。夜中の二時である。一便遅れて荷物が着いたとの知らせで、ロビーまで取りにこいとのこと。そんなもの部屋まで運んでくれー。

九月三日 メキシコシテイ

朝食でロビーまで降りると、F女史が蒼ざめた顔をしている。なんでも荷物の鍵がいじられた形跡があり、調べてみると忍ばせておいた七〇〇ドルの現金のうち1ドル紙幣二〇〇枚を残してなくなっているという。治安が悪いところだとは聞いてはいたが、まさかこんなところでとは。筆者は頑丈で野暮ったいカバンのせいであろうか無事であった。  

今日の用件はJICA事務所表敬訪問だけであるから、たっぷり時間はある。  

ということで、ホテルの観光案内で半日ツアーのようなものがないかどうかを聞くことにした。といっても、スペイン語をしゃべれるのはO氏だけということで、O氏がいろいろ話をするが、なにを言ってるのかわからない。十分後にこっちに戻り、ハリケーンは心配ないそうですとのこと、だれもハリケーンの心配などしとらん! バスツアーがあるのかないのか、料金はいくらか、どこから何時に乗ればいいのか、そういったことを訊いてほしかったのに。  

これ以上は時間切れで、九時半に発つ。足はJICAメキシコ事務所の借り上げ車。十時到着、所長に挨拶したのだが、こんどのキューバ案件にどこまで関与できるのか、した方がいいのか、とまどいが隠せない様子だった。キューバに先行して派遣されている企画調査員の古屋さんは本部からの派遣で、メキシコ事務所の管轄下ではないからなのである。ところで、最初に応対してくれたO嬢は清楚できりっとしたキャリア、若き日のF女史を思わせた。このO嬢がメキシコ在住の熟年女性、通訳の山脇さんに引き合わせてくれた。  

これで用務は終了。空港に向かう。じつはJICA事務所の方からメキシカン航空に連絡して、そこの事務所に行けばF女史が盗難にあった五〇〇ドルは補償してくれそうだとの話が入ったのである。行って見ると、補償というよりは苦情処理扱いで、申請書を書いたが、日本に帰ってからのことになるらしい。ほんとうに戻ってくるのか?  

そのあと街中でメキシコ料理のバイキング、とはいっても庶民向けのもののようである。  

味の方はー うーん、もはや思い出せない。  

さて、ホテルに一旦帰り、午前中JICAで借上していたクルマを使ってピラミッドを見にいこうということで、運転手と交渉。九〇ドルでOKとなった。O氏は、眠たいからとパス、ということで、ふたりで出発。運転手はスペイン語オンリーだが、まあ、なんとかなるだろう。  

メキシコの街はやたら広い、行けども行けども小さな建物が延々と続いている。落書きがいっぱいで、壁も崩れ落ちそうなものも多い。やはり貧しいんだなということを実感。  

一時間も走って(その間F女史はおおむねスヤスヤ。以降、一週間行動をともにするなかで、彼女がクルマに乗るとすぐ眠れるという類まれなるうらやましい特技の持ち主であることを知った)、ようやく緑の大地になってきた。やがてピラミッドがその姿をあらわす。  

運転手はまず一軒の売店に立ち寄った。キックバックでもあるのかもしれない。そこの主人がスペイン語なまりの英語で庭のサボテンを解説、この樹液から作った酒もあるから試飲しろと建物のなかに連れて行く。土産物屋だが、主力はブラジルのアメシストなどの美石。ただし、メキシコ産の鉱物標本の名にふさわしいものはなさそうだった。試飲のあと美石鑑賞したかったが、F女史があまり関心なさそうなので、ピラミッドに登ることにする。結局、何ひとつここでは買わず、サービスにこれ勤めた主人はガッカリしたかも知れない。  

ピラミッドはものの本で知ったエジプトのそれとは異質で、彫り物などもあって、スケールで劣っても、造形美の点で勝っているように思えた。閉口したのは物売りがたくさんいて、おおげさにいえばピラミッドの登り口まで、物売りをかきわけかきわけ歩くという感じであった。太陽と月のふたつのピラミッドを制覇。頂上からの眺めはちょっとしたものである。  

帰路に着く。またもやF女史は特技発揮。市内に入ってから、サービスのためか運転手は市内の見所を一巡して、ホテルに戻る。  

ホテルで夕食後、部屋に戻り、早々に床に就く。なにしろ明日は四時起きなのだ。

九月四日 メキシコシテイーハバナ

前夜、早々と寝たせいか、二時に目覚めてしまう。四時、ホテルを発つ。  

空港到着四時四十分。こんどもビジネスクラスなので、VIPルームへ。朝のビールは格別だ。ここで山脇さんと合流。  

ハバナのホセ・マルテイ空港到着。古屋氏が出迎え。JICA借り上げ車で、Meria Havanaホテルに。ここはハバナ市であるが、新市街地と呼ばれているところで、世界遺産にもなった旧市街地でない。メキシコのそれと違って、筆者には分不相応な立派なホテルで、大きなプールがあり、当然オーシャンビューである。昼食まで時間があるので、まずは隆起サンゴ礁の岩浜にでて散策。  

部屋に戻るとドアにF女史のお手紙が。「なにしてんの、先にテラスで食べてます」との怒りのレターである。時計をキューバ時間に合わせるのを忘れていたのだ。あわてて、テラスに駆けつけ、平謝り。  

大使館にあいさつ。大使は不在で、U書記官が対応。要は、英雄カストロも高齢になった、カストロ自体のカリスマ性で体制はなんとか持ちこたえているが、人心は倦んでいる。カストロ死後にこの国はきっと化ける。ヨーロッパやカナダに出遅れたが、そのためにもいまのうちからツバ付けをしておかねばならない。その尖兵がこのプロジェクトなのだという筆者には縁遠い政治的な話。  

ホテルに戻る。夕食だが、古屋氏に頼み込んで、キューバの家庭料理を食べさせてもらえるところに連れて行ってもらう。一種のバーベキュー料理である。  

ホテルに戻るが、冷蔵庫はあるものの、中身はカラッぽで、今夜も寝酒なしとなった。

九月五日 ハバナ二日目

朝、八時半集合だがF女史が来ない。昨日の筆者のように目覚まし時計がメキシコ時間のままだったのだ。歴史は繰り返す・・・  

本日は本プロジェクトの形式上の窓口、投資協力省MINVECに。局長以下数名の幹部にMINVECの役割について説明を受ける。次いで本プロジェクトを実質的に担う科学技術環境省CITMAに。旧市街地の国家議事堂内にあり、次官、各局長より、キューバの環境の概要と環境政策の概要の説明を受ける。  

これらの会議、出席者は男女比もほぼ同じ、黒い人も白い人も中間の人もほぼ同数。少なくともキューバは女性差別や人種差別がないことだけはわかった。  

国会議事堂はスペイン植民地時代の由緒ある建物とかで文化財にもなっているらしく、館内を案内してもらうが、美術オンチの筆者には豚に真珠かネコに小判。  

そのご、MINVEC主催の昼食会。次官が出席するせいか、大使舘からも大使とU書記官が出席。アルコールと軽食のみで、なんとも貧相な昼食会だと思ったが、キューバではまず応接セットのところで軽く一杯やりながら懇談して、それから別室に行って食事というのが、慣例なのだった。  

午後はCITMAの外局である環境庁AMAへ。長官(女性)より、AMAの概要説明の後、本プロジェクトについて意見交換。  

さて、夕食までまだだいぶ時間がある。ホテルは、新市街地にあるが、ハバナの見所はなんといっても旧市街地らしい。古屋氏がそのハバナ旧市街地を案内してくれるという。  

革命広場だとか、議会だとかいろんなところを回る。ところどころにゲバラの似顔絵があるが、偶像崇拝という感じは受けなかった。最後はダウンタウンで下車し、街の雑踏を歩く。メキシコ同様、修理もままならぬ汚れた建物が立ち並ぶ。しかし、落書きはないし、筆者の思い入れのせいか、人々もとくにわれわれをよそ者として好奇の目や反感の目でみられることもなく、貧しいなりに、明るそうだった。もっともかといって、革命後ウン十年、もはや革命の熱気といったものは微塵も感じられなかった。  

今日の会議で知り得たキューバの環境行政/政策の概要をみてみよう。  

一九七二年の国連人間環境会議(ストックホルム会議)への参加をきっかけに環境行政/政策ははじまったが、それが本格的・具体的になったきっかけは一九九ニ年のリオサミットである。リオサミットでは、途上国代表としてカストロ議長が長弁舌をふるい、先進国を震撼とさせたのであるが、これ以降  

各種環境関連の国際条約をつぎつぎと批准するなど、積極的な政策展開を行ってきた。同年の新憲法で環境保全の重要性と持続可能な開発をうたい、翌年にはローカルアジェンダにあたる「環境と開発国家プログラム」を制定。一九九四年にはCITMAとAMAを立ち上げ、一九九七年には新・環境法を公布、現在施行準備中である。新設の事業場やプロジェクトにはアセスメントなど厳しい環境面からのチエックを行っている。しかし、問題は既存の生産設備であり、老朽化し、また十分な公害防止設備がないなど、意欲だけでは如何ともしがたい面が大きい。もっとも、工場はすべて国営であるから、カネさえあれば、問題の解決は可能であろう。  

日本においては環境基準の制定、排出規制というツールが確立し、それを担保するために自治体における環境基準の常時監視や工場立入検査が行われた。そうしたことを可能にしたのは情報公開のもとでの世論の盛り上がりであり、同時に右肩上がりの経済であった。  

キューバにおいては環境基準や排出基準は明示しておらず、それを担保する常時監視体制も脆弱で、工場への指導・検査も各省に委ねざるをえないのが実態のようである。  

ハバナはじめ都市部や昔からの工業地帯、鉱山周辺における水質汚濁、廃棄物が問題化しており、とくにハバナ湾の汚染は深刻だとのことである。  

もっとも途上国の大都市ではどこでもクルマ公害がすさまじいが、ハバナでは自動車の数は少なく、自動車公害対策はいまから手をうっておけば、十分に可能であろう。  

夕食はホテルのイタ飯屋で。ワインで乾杯。夕べの食事に一緒に行かず、ひたすら仕事をしてくれた山脇さんにスパゲテイをご馳走。  

夕食後、CITMAの招待でモロ要塞の大砲打ちの儀式を見に行く。旧市街はハバナ湾に面しているが、狭い水路を隔てた対岸にモロ要塞があり、市民の憩いの場になっている。そこで、毎晩大砲打ちの儀式があるので、お見せしたいとのことだった。案内役はCITMAハバナ支局の、多分こんどの研修で日本に来ることになるうら若き美女オダリさん。市民がぞろぞろ集まってくる。オダリさんが交渉して、特別に係りの女性がゲバラ記念館などを案内してくれた。オダリさんの財布にはゲバラの写真が貼ってあり、憧れの人だという。やがて音楽とともに衛兵が登場。いろんなパフォーマンスのあとズドン!と空砲一発が夜空に響き渡った。帰りに売店でゲバラの絵葉書と寝酒のビールを購入。

九月六日 ハバナ三日目

朝、枕の上に二ドル置いてでかける。昨日の朝、脇机に置いてきたチップが、取らずに置いてあった。山脇さんの話によると、キューバではチップは枕の上に置くもので、それ以外は取らないとのことなので、昨日の分と併せて置いたのだ。  

今日はまずCITMAハバナ支局に行き、ハバナ湾浄化作業グループGTEと懇談。ハバナ湾の汚染対策がキューバでは喫緊の課題になっており、GTEは現行の縦割り行政ではどうにもならないとのカストロ議長のお声がかりでできた省庁横断の実行組織らしい。一応のレクチュアを受けたあと、GTEの船で湾を視察。なるほど湾奥部は油膜が張るなどして相当汚濁している。ただし、油濁に関しては汚染源ははっきりしており、湾奥の石油精製公社がメインである。それでも昔よりはきれいになったらしく、湾の出口あたりは汚染していりという感はまったく受けなかった。  

ホテルに戻り昼食。またもイタ飯屋でピザ。  

そのご湾岸のガス公社見学。写真撮影は禁止されるなど、「社会主義」国特有の秘密主義、官僚主義も散見される。かつてはハバナ湾油濁の主犯だったらしいが、プロセス変更・クローズド化を行い、現在では排水はほとんど出なくなったとのこと。  

さらに港湾総合環境センターCIMABを訪問。運輸省傘下の組織で、湾岸の調査と研究をやっているとのこと。  

最後が港湾衛生公社SAMARP。港湾と船舶の清掃・処理を行っている公社で、現在新焼却炉を建設中であるが、公害除去装置らしきものはなかった。  

今日はいずれも時間が押せ押せの状態で、18時近くまでひっぱりまわされ、くたくた。  

部屋に戻るとシーツで人形が作られてあり、そのそばにメイドのAngelaからのチップのお礼の便りが置いてあり感激。さっそくみなに自慢。  

夕食、今夜はホテル内の高級料理店に行き、ワインを一本空け、キューバ料理を堪能。

九月七日 ハバナ四日目

今日も、終日視察である。  

まずはハバナ市公共サービス局DPSC。ここは廃棄物処理などの公共サービスの実施機関である。まずは局長からレクを受けたあと、さっそくリサイクル施設「El Husillo」を見学。  

ごみのなかから空き缶や段ボールを回収、さらに有機廃棄物からミミズの腐葉土を作っている。後者はとくにご自慢らしく、腐葉土を土産にもらう。こんなもの日本に持って帰るわけには行かないが、古屋さんが喜んで引き取るというので、F女史ともども頂戴する。  

ついでDPSCの廃棄物最終処分場「Calle 100」へ。広大な処分場を見渡すと、ところどころ野火がみえる。メタンが自然発火しているのであろう。キューバではごみは焼却せずに、そのまま埋め立てしており、遮蔽シートもないらしいから地下水汚染が心配になってくる。収集分別体制の見なおしが必須であろう。  

帰りにキュ−バ人の行くドルショップに。品数は少なく、やはり貧しい社会主義国だということが実感できたが、それでもビールは買えた。これで寝酒をゲットできた。  

昼食はホテルでスパゲテイ。毎日イタ飯だ。  

午後、最初の訪問は国営工場の総元締め、基礎工業省MINBAS。わが省がいかに環境に力を入れているかを力説する。意気込みはわかるが、説得力がもうひとつ。まあ、老朽化した生産設備に、貧弱な処理装置だから仕方がないが。  

ついで、ニコ・ロペス製油所。ハバナ湾油濁の最大の原因者である。当該工場は軍事施設に指定されているとのことで、写真は厳禁。  

パイプのところどころからリークがあり、激しく火を吹いている。排水は油水分離されるとのことであるが、処理後も真っ黒である。油濁防止バーがあるが、その外側も油膜がかなり見られる。これでもだいぶ改善されたというから、押して知るべしであろう。われわれの<研修>というソフト面での協力は役に立つのだろうか。なによりも生産設備と処理装置そしてモニタリング機材というハード面の手当てが必要なのでなかろうか?  

ホテルに戻るとこんどはシーツで鶴が折ってあり、またもAngelaからお便り。今朝ニドルのチップにお礼の手紙を書いておいたその返礼というわけだ。O氏は夕べ筆者の話を聞いて、五ドルもチップを置いたのになにもなかったとご機嫌斜めだった。  

さて、今日の夕食は大使館の招待。最近、大使館の肝煎りでできたという日本料理店に。   

てんぷら定食を頼んだのだが、べちゃべちゃの仕上がりで、とても食べられたものでない。F女史もO氏も顔を顰めていた。M大使とU書記官はカツどんを注文。ひょっとするとあれが、唯一食べられる代物かもしれない。外務省不祥事件とか真紀子大臣と事務方の暗闘なんて話題をするわけにいかないから、共通の話題というと人の話。大使は筆者と同世代で、外務官僚に似合わず、腰が低く穏やかな人柄に見受けた。大使が本省課長時代に環境庁からだれだれが来てたという話をするから、筆者も瀬戸内室時代、外務省から出向できていた兵庫県のY課長とよく飲み歩いたという話でつなぐ(この話は後日談があるので要注意)。

ホテルに戻り、毎日つきあってくれている古屋さんとロビーで飲む。

九月八日 ハバナ→バラデロ

枕にAngelaへのお礼の手紙と五ドルを置いて一旦チエックアウト。まだ見ぬいとしのAngelaよーと思わぬでもなかったが、よく聞くと、ベッドメイクはニー三人でやるらしい。だからお手紙やシーツ細工はAngelaチームのチップ獲得作戦ということになるのだろう。グスン。  

まずはハバナ湾の対岸の高台にある気象研究所INSETへ。ここはCITMAの付属機関で気象観測の他、大気汚染モニタリングを担当。といっても、大気汚染モニタリング網はきわめて貧弱である。企業の自主測定結果はどの程度届いているのか(CITMAの説明では監督省庁から届けられ、ここでチエックできるとのことだった)、またその信頼性如何について質問。実際にはCITMAには届いていないし、信頼性もないとの率直な答え。お目付け役で随行してきたメルセデスさんの顔色が一瞬変わる。ここでははじめて研究者の本音を聞けたかの感。  

そのあと屋上へ。ハバナ湾と旧市街地が一望に望め、ここで記念写真。ここがモニタリング拠点のひとつだとのことであるが、ここのデータは風向きによっては旧市街地の汚染データだったり、バックグラウンド濃度になったりするのでないかとの質問に、苦笑しつつイエスとの答え。  

このあと、モロ要塞近くの公園でCITMAで準備してくれたサンドイッチをぱくつく。  

ここでゲバラ灰皿とワイフへのニットシャツを購入。  

いよいよマタンサス県に向けて出発。ハバナを外れると突然人家は姿を消し、延々と丘陵地帯がつづく。見渡す限り、畑と森林で、時折左側に海が見える。やがて県境近くの海岸に大きな汲み取りポンプのようなものが林立しているのが見えだした。石油採掘の現場である。貴重なエネルギー資源であるが、事故でも起きると一気に美しい海岸が台無しになってしまうのではなかろうか。  

県境のバグナヤグア展望所に到着。ここで、CITMAのマタンサス県担当者と落ち合う予定。熱帯雨林におおわれた深い谷があり、キューバ一長いという長大橋がかかっている。 無数の鳥が舞い、はるか彼方に蒼い海が望める絶景である。このあたりは自然保護区に指定されているらしい。  

時間になってもマタンサス県の人は来ないので、展望台で売っていたなにかの果液にテキーラをミックスしたものを飲みながら、時間つぶし。痩せたイヌがしきりに筆者にじゃれついてくる。精悍そうなネコもいたが、こちらは距離を置いて筆者の様子を伺う。いずれにせよ、筆者は人間よりもイヌ、ネコにモテそうである。  

この下が売店になっており、愚息と筆者用にゲバラTシャツを購入。  

ようやくCITMAマタンサス県環境担当のアルフォンスさんが遅刻の言い訳をしつつ登場して、メルセデスさんとはここでお別れ。  

眼下にマタンサス湾が望め、町並みのなかを通っていく。ここが県の中心部らしいが、日本でいえば田舎町といったところ。それでも家庭排水が問題で、一見きれいそうにみえるが、マタンサス湾の汚濁が問題になっているとか。  

いよいよバルデロに入る。ここは長大な砂州で、そのなかにホテルはじめさまざまなもっぱら外国人観光客対象の観光施設が立地している。  

砂州の先端近くのホテル、MeLia Varadero に到着。ここは環境対策や環境配慮がすぐれているということで、CITMAから環境賞第一号を貰ったというホテル。たとえば、ホテルの排水は全量を庭の散水に使っているらしい。ここの支配人がプールや庭園を案内し、どういう環境配慮がなされているかを語ってくれたが、重いスースケース持たせたまま案内などすんなよ。まずは荷物をどっかで預かれと内心プンプン。  

ようやくチエックイン終了。まずは散策とひとり庭と浜辺にでかけかけたところに突然の雷雨。結局、深夜まで雨は降り止まなかった。  

夕食は庭に別棟で建っている木造の小粋なキューバ食レストラン。もちろんオーシャンビュー。ラテン音楽のライブ演奏付で、ロブスターと豚をぱくつく。  

夜、カラオケバーに。曲はすべてスペイン語で、おまけにキーは変えられない。環境庁・JICA連合軍対山脇さんの対決になったが、山脇さんの圧勝。元コーラス部だったとかで、ひとり唄いまくっていた。F女史とデュエットに挑戦するも、音域が合わず無残に敗退。

九月九日 バラデロ→ハバナ

すばらしい青空がひろがる。今日の午前中が唯一のリクレーションタイム。筆者は当然、浜で遊ぶ口。F女史も右に同じ。山脇さんはゴルフ。古屋さんは買い物。ハバナよりもこちらのほうがものが揃っているらしい。O氏はあとで聞くと午前中ずうっと寝ていたらしい。  

シュノーケルを借りて浜に向かう。日本と違い、ごみがまったく漂着していない。燦燦と降り注ぐ日光の元、浜のあちこちで、観光客が日光浴を楽しんでいる。わがF女史はもちろんおとなしすぎる水着だったが、他の女性はすべて老若問わず超ビキニで、トップレスも散見、目のやり場に困る(けど、うれしい)。F女史とかわりばんこに海に出る(残ったほうは荷物の番)。シュノーケルで潜ると砂と岩が交互に現れ、岩の部分に魚が群れているが、地味な色合いのものばかりで、カラフルな熱帯魚という感じではないし、サンゴも目に付かない。  

泳ぎ疲れて浜を端までトップレス美女を見ないようにして(実は見てるんだけど)散策。 一番端っこにある建物がヘミングウエイの別荘だという。  

部屋に戻り、出発準備。短いバカンスだった。  

チエックアウト後グラスボート乗り場に。ところがグラスボート、前夜の雨で濁っているため出航しないという。仕方なく中国料理店で昼食。  

ハバナに向かう。途中、またもスコール。  

夕方再び元のホテル到着。雨は上がっている。夕食はマカロニで再びイタ飯。ロビーで古屋さんとまた一杯。

九月一〇日 出戻りハバナ二日目

いよいよキューバ最後の一日で、キューバ側との最終打ち合わせ。  

AMAに行く。幸いなことに向こう側はズラーといるのでなく、実務担当者のメルセデス、フスト、オダリさんの三人だけ。不毛な議論はなく、簡単に合意に達する。  

昼食。さすがにこのホテルの食事は飽きたというので、F女史、山脇さんと三人で隣のホテルのプールサイドのハンバーガーショップに。  

そのあと今夜の打ち上げのアルコールやらつまみやらをドルショップで買い込む。  

午後、大使館へ。U書記官に任務終了のあいさつ。あとはO氏が残って、外務省への公文作成ということで、時間が余った。最後にもういちどひとり海岸の磯浜を散歩して、それからせっかくだからというので、水着に着替えてプールに。先客がいて、F女史が淡々と泳いでいた。  

ちゃんとした土産をワイフに買ってやろうと思うのだが、不思議なことにこのホテルにはアクセサリーや骨董のようなものはショーウインドに陳列してあるが、売店というものがない。フロントに問いあわせてもらったが、担当が不在とのことで断念。  

本日の夕方はCITMAのレセプションで、副大臣以下幹部が勢ぞろい。こざっぱりした建物はCITMAの迎賓館らしく、豪華な料理が並んでいて圧倒される。おいしかったが、最貧国でかつ社会主義を標榜する国が・・・といささか複雑な心境。  

ホテルに戻って、筆者の部屋で打ち上げ。

九月一一日 ハバナ→メキシコシテイ テロ勃発

チエックアウトをすませ、九時にホテルを出発。ホセ・マルテイ空港でチエックインして、ここで古屋さんとお別れ。一週間お世話になりました。  

メキシコ空港到着。山脇さんの家族が出迎えに来ていて、ご主人からいまニューヨークでハイジャックされた飛行機が十数台!あって、それがビルに突入してたいへんな騒ぎになっているとの話を聞かされたが、なんだか他人事みたいな感じで半信半疑のまま、山脇さんとお別れ。  

空港内にあるヒルトンエアポートホテルに向かう。ロビーのTVではじめて世界貿易センタービル崩壊の映像をみて、仰天。まるで、SF映画だ!  

本日の午後は空いているから、市内見学でもと思っていたのだが、この歴史的大事件の勃発で、意欲が殺がれる。そこへF女史からまたも帰りの荷物から現金が抜かれたとのニュースが飛び込む。来るときに盗まれた際、残していった1ドル札ニ百枚がやられたという。メキシカン航空はほんと信用できないし、メキシコの治安の悪さを痛感する。かくてこの日の午後はずうっと部屋に閉じこもりTVを見続ける。ところが、CNNを除けばスペイン語オンリー。CNNの英語も早口で、もうひとつ理解できない。このときほど日本のTVと新聞が見たいと思ったことはなかった。  

ロス経由の便は出発できないことは明らかだから、O氏が交渉して、バンクーバー経由のJAL便にチケットを切り替える。  

夕食もホテル内のメキシコレストラン。F女史が落ち込んでいるので見るに見かねて夕食をおごる。

九月一ニ日 メキシコシテイ足止め

出発できるかも知れないから、空港へ十時に集まれという話がJALからO氏経由で入ってきた。朝食後、チエックアウトして、とりあえず空港のJALカウンターまで。ここで、延々と待つこと三時間。その間、CBSの記者から「今度の爆弾テロをどう思うか」というインタビューがあり、即座に彼女なら英語ができるからとF女史にふる。うん、さすがに才媛、みごとにインタビューの受け答えしていた。  

結局、昼過ぎになってから、今日は出発しないとのこと。となると、今夜の泊まりはどうなるのか。ヒルトンは満室なので、どこか探さねばならない。O氏がJICAメキシコ事務所やらJICA大阪センターと連絡をとり、どうにか日航メキシコホテルに決まった。  

タクシーで日航ホテルへ。ところが受付カウンターではそんな話は聞いていないとのこと。向こうの責任者がまたあちこちと連絡をとり、ようやくチエックインできたのだが、このあたりからO氏は相当疲れてきた模様で、やることがしばしばちぐはぐになり、筆者やF女史をいらいらっせる。  

さて、このホテルでうれしいのは日本語のできるスタッフがいることと、日本食レストランがあることである。  

夕刻、さっそくこの日本食レストランへ。キューバのそれとちがい、味も本格的で、スキヤキに舌鼓をうつ。  

帰りのエレベーターのなかで、「久野さんじゃありませんか?」と声をかけられる。驚いてだれかと振り返れば、先日キューバ大使と話題にしたばかりY氏(元・兵庫県水質課長)だった。偶然とはおそろしい。じゃ、ぼくの部屋でいっぱいどうぞ、と誘う。男二人では味気ないので、F女史も電話で呼び出し、しばし三人で歓談。かれはいまは国際交流基金の総務部長で、仕方がないから明日ヨーロッパ経由で帰ることにしたらしい。

九月一三日 メシコシテイ、またも足止め

朝、今日は飛行機は出航しないとのホテルの布告があり、メキシコ市内観光を志す。このホテルの近くに大きな公園があり、動物園だとか人類博物館などがあるのだが、筆者は目ざとく自然史博物館のあるのを見つけ、無性に行きたくなったのである。狙いは無論メキシコの鉱物。F女史も赤子の衣類など買い物をしたいとのことなので、一緒にでかけることにしたのだ。O氏は疲れたので休養したいとのこと。スペイン語ができなくともなんとかなるだろうとホテルをあとにする。  

地図を片手に公園方面に。公園の手前に幹線道路があり、クルマがびゅんびゅんと飛ばしている。そこを渡らなければならないのだが、恐ろしいことに信号も歩道橋もない。現地の人たちはそこをスイスイと飛び出し横断する。われわれは渡ろうとするのだが、恐ろしくて最初の一歩がでず、一五分以上も立ちすくんだまま。仕方がないので、渡るチャンスを待っている現地の人のそばにつき、その人と一緒に目をつぶって飛び出す。メキシコはおそろしく人にやさしくない都市である。  

二箇所で不審尋問?に遇う。スペイン語で聞かれて、意味は分からないまま英語で答え、向こうも意味は分からないままOKを出し、目的の自然史博物館に一歩一歩近づく。日比谷公園の何十倍だかの公園でやたら広いのだ。  

ようやく自然史博物館に到着。腹も減った。得体のしれない屋台よりは、中のレストランのほうが安全だろうと入ったのだが、そもそもレストランなどなかった。ショックだったのは、動植物だとか宇宙だとかいうパビリオンはあるのだが、鉱物=石のパビリオンはなかったことである。仕方がないので、屋台で蛇がとぐろをまいたような格好の乾パンみたいなものを買う。ペソのコインを出して、これから取れと身振りで示す。大半残したから多分正直なオヤジだったんだろう。  

ぼくのリクエストに応えてF女史が同行してくれたから、こんどは買い物につきあうよといったのだが、歩きつかれたのか、もう帰ろうというので再び延々と公園を歩いてホテルまで帰る。  

その晩も夕食は和食。後で聞くと、なにもメキシコまできて・・・とF女史は不本意だったようである。ゴメン!  

深夜ドアのところにホテルからのお知らせが入っており、明日飛行機がでるので、バスに乗り遅れないようにとのこと。ようやく、帰れる! もっともO氏は独自ルートで、一週間は飛ばないとの情報を入手し、ほんとうに飛行機が飛ぶとは最後まで信じられなかったようである。

九月一四日メキシコ出発 一五日成田到着 一六日成田→自宅

かくて、十五日深夜十一時に成田到着。F女史は東京の実家にバスで帰り、筆者とO氏は近くのホテルで一泊。愚息に電話し、明日昼食を一緒にとることにする。なんと心やさしい父親であろうか・・・  

翌朝空港へ。ここで、O氏とわかれ、バスで羽田。愚息二人と昼食後、伊丹へ。ワイフが出迎えに来て、再び日常生活に戻ったのだ。

(後日談)

帰ったはいいが、ノルマがある。調査団の報告書の執筆分担があるのだ。F女史はノートパソコンを持っていき、旅行中せっせと打っていたのだが、筆者にそんな芸当ができるわけがないし、思い返すとわからないことだらけ。F女史が書いた出張報告と、先行して行われたプロジェクト形成調査報告書の該当部分を切貼りし、論理的につながらないところを強引に想像でつないで、ようようデッチあげた。その間に、F女史は出張報告書だけでなく、来冬の第一回研修プログラムをほぼ完成させていた。なんと筆者に二コマも押し付けたのだ!  

いま、あのときのテロの後遺症はすさまじく、世界でもっとも富める国がもっとも貧しい国を毎日爆撃、日本もそれに追随して世界はやたらきなくさくなった。富める国が貧しい国にすべきことはほかにあるのではないかと、貧しいながら必死に環境問題に取り組んでいたキューバに思いを馳せている。  

(平成十三年十一月一日)