環境漫才への招待

自然共生事業と国立公園管理

―センセイ、暑いよ! なんとかして!

―いやあ、ほんとに暑い。でもキミなんかワールドカップのときはもっと熱かったんじゃないか。

―え? センセイはあのとき燃えなかったんですか?

―試合は楽しんだよ。でも、ぼくはみんなが燃えるときは醒めてしまうたちなんだ。

―ほんと、いやなタイプですねえ。で、燃えてるワタシたちを見て、なにを考えていたんですか。

―ショービニズムの危険だ。

―なんですか、ショービニズムって

―排外的愛国主義。戦争で戦火を開くときは民衆は熱狂するよねえ。日本でも開戦時はほとんどの民衆は鬼畜米英と叫んだらしい。最近では九・一一の同時多発テロ後のアメリカがそうだった。あれに通じるような不気味なものをちょっと感じた。とくに韓国なんかすごかったねえ。

―だって自国を応援するのは当然じゃないですか。いまやっている高校野球だって自分の出身県を応援するでしょう。

―そういう愛郷心や愛国心は否定はしないよ。ぼく自身は不思議なほど希薄だけどね。でも、相手のミスを拍手喝采したり、相手チームを罵倒したり憎んだりするようになるとそれは行き過ぎだ。もっとも、日本ではキャンプの誘致合戦をして、誘致に成功した地域では、その国を応援したりしたそうだから、国際親善の効果もあったみたいだからいいんだけどねえ、そのあとどうすんのか・・・

―どういうことですか?

―ほうぼうで何十億というカネをかけてサッカー場を作ったりしたけど、あとはぺんぺん草が生えるところも多いんじゃないかなあ。借金だけ残して。

―心配性ですねえ。しかたないじゃないですか。野球場を使うわけにいかなかったんだし。

―それだ! どこにでもある野球場を一時転用すればよかったんだ!

―(あきれて)もうこの話題はこれで終わりにしましょう。でも、センセイのスポーツ音痴は聞きしにまさるものがありますねえ。

―(不服そうに)どうして?

―はいはい、野球場とサッカー場の構造のちがいを勉強しておいてください。次の話題に行きましょう。長野県でセンセイの好きな田中康夫が県会で不信任され失職ましたねえ。あの件でコメントないですか。

―別に好きじゃないよ。多分、そばにいると鼻につくじつにイヤな奴だと思うよ。(うらやましそうに)独身をいいことに下半身はだらしないらしいからね。ま、それでもさすがに知事になってからはスッチーのW嬢ひとりに絞ったみたいだからいいけど。でもねえ、何十年とつづいてきた利権と馴れ合いと癒着の構造を打破するのは、田中康夫みたいな変人奇人というか、非組織人でなきゃできないと思うから喝采しているだけでね。現に公共事業批判を唱えて当選した旧社会党左派系の徳島県知事も、やっぱり組織人だから、工事が始まっていた空港埋立には同意せざるをえなくなっちゃったし、議会から問責決議まで受けて青息吐息の状態だもんなあ。その点田中康夫は宇宙人だと思うよ。まあ数日前に議員辞職した田中真紀子みたいなものだけど、それなりの理想と信念をもっているから、あの女帝とは随分ちがうよねえ。でもねえ、県議会側はこんどの選挙はそれこそ「昔はよかったー」って言って、前回落選した副知事の池田某とか、二十年間県政を壟断してきた吉村前知事を担いでリベンジすればいいのに、それをしないのは卑怯だと思うな。

―なぜ担がなかったんですか

―惨敗するのが目に見えてるし、そうなればもう田中康夫を叩けないもの。だから、かれらにしてみたら、市民派を名乗る何人かの候補がでて票が分散したほうがいいんだよ。田中康夫が勝っても、過半数の票を取ってなければ、県民の多数の支持をえたわけじゃないと強弁できるもの。それにしても田中県政では財政が破綻するなんてよく言うよねえ、自分たちが破綻させといて。ふたを開けてみないとわからないけど、案外田中康夫は軽く過半数をとりそうな気がするなあ。で、つぎの県議選で康夫陣営が多くの候補者を立てて、議会の構成ががらっと変わればおもしろくなるんだけど、そっちの方がむつかしいかもねえ。

―どうしてですか。田中康夫を支持した県民が、県議選では反田中の県議を推すというんですか。

―そういうことは多分にありうると思うよ。だから「われわれ国民は」とか「われわれ県民は」とか安易に使わないほうがいい。国民も県民も十人十色なんだから。そしてそのほうが或る意味では健全なんだ。でね、国民とか県民とかが十人十色でなくなるときというのが、さっき言ったショービニズムに犯されたときで、その端緒はスポーツにもあるんではないかということだ。たかがスポーツ、されどスポーツというわけだね。

―ふうん、なんだかよくわかんないなあ。でもワタシ、そりゃあ日本を熱狂的に応援したけど、同時にベッカムさまさまなんだよ。かれにだったら抱かれたい!

―なんだ、そのベッカムてのは。

―(絶句)ほんと、センセイは骨董品みたいなヒトですねえ。さあ、本論ですよ。この間の環境行政についてなにか語ってください。

―そうそう、前号でちょっと言った循環型白書の未来の三つのシナリオというのを読んだよ。技術開発推進型、ライフスタイル変革型、環境産業発展型の三つのシナリオを呈示して、読者に人気投票してもらおうというものだけど、あまりにも簡単すぎるし、それぞれの実現可能性もわからないんでコメントしようがないよ。ビジョンを示し、それに至るシナリオとそのための具体的なプログラムを考え、そのプログラムが実行不能とわかれば、ビジョンとシナリオを修正するという何往復ものフィードバックの末に、実現可能な複数のビジョンとシナリオを示さなきゃいけないんだけど、あれはそれぞれ一枚にビジョンともシナリオともつかないものがあるだけだもんなあ。ま、真剣なシナリオというより、目先の変わった普及啓発と意識調査と思ったほうがいいみたいだ。ほんとの意味でのビジョンとかシナリオについては、いま中央環境審議会で来春までに作らなきゃいけない循環型社会形成推進基本計画の関連で議論しはじめてるみたいで、秋にはもう少し議論の中身が深まってくるとは思うけど。

―現段階ではどうなんですか。目を瞠るような展開になりそうですか。

―議事要旨をHPで公開してるから、いちど読んでごらん。議論の段階ではね、いろいろいい話がでてるよ。でもねえ、政府全体としては、やっぱり不況対策・景気対策が議論の中心で、従来型の経済成長を夢見てて、それを阻害しそうなものになると到底無理だろうね。

―ははーん、その言い方だとセンセイもじつはその議事要旨じっくり読んでないんでしょう。

―(ギクッ)な、なんてことを

―センセイのパターン、ワタシわかってきたもん。それにワタシだって、やっぱりリストラとか失業が蔓延した社会は困るもの。

―都会でメシが食えなくなればUターンやJターンで、地方に帰るという選択もある。休耕田はたっぷりあるし、公共事業の概念をがらりと変えて、森林の整備や管理に公費をうんとつぎ込めばいいよ。収入は下がってもより人間らしい暮らしができるかもしれない。

―へえ、そんなこというならまずセンセイが実践してください。

―実践しているじゃないか。東京から「地方」に来ただろう。それに給料も役人時代より下がった。農作業だってしてるよ。裏の竹薮から筍をいっぱいとってきて、旬の味覚を楽しんでるよ。だれの竹薮か知らないけれど。

―そうやってすぐごまかすんだからあ。

―だって、循環型社会てのは或る意味では従来のGNP、GDPで表される経済成長を断念しなきゃならないんだ。つまり給料は上がることを期待しちゃいけない、物質的な豊かさは今以上に求めちゃいけない社会なんだ。もちろん、仕事を楽しくするための創意工夫の積み重ねで、結果的に給料が上がったり、GDPが上昇すれば結構毛だらけ、ネコ灰だらけだけどね。民間でも地方自治体でも給料ダウンが現実のものになっているし、国家公務員に関してもつい数日前人事院が2%マイナスの勧告をだした。そうなれば消費もますます落ち込む。一種のデフレスパイラルみたいになってるんだけど、裏返せば循環型社会への条件整備が否応なく進んでいるともいえる。究極の循環型社会と言うのは自給自足型社会、完全な自給自足というのはGDPゼロなんだ。

―え、そうなんですか?

―そうだよ。オカネのない時代はそうだった。単にオカネができただけでなく、それに利息がつくようになったのが、現在の社会の発展をもたらしたんだけど、それがもう限界に来ているし、弊害のほうが大きくなったということで、いまでは利息がつかず、限定された共同体内だけで流通する「地域通貨」、いわゆるエコマネー運動なんてのも各地で起きている。ま、この話はいずれゆっくりするとして、GNPとかGDPとかいうのは基本的にはオカネのやりとりの総量なんだ。野菜を買えばGDPにカウントされるけど、自分で作ればカウントされない。専業主婦の家事労働はGDPにカウントされないけれど、同じことをお手伝いさんがやればカウントされる。キミがオカネをもらって裸になればカウントされるけど、ナンパされて脱げばカウントされない。

―お下劣!

―ところでぼくの趣味が鉱物を集めることだけど、関学広しといえどぼくの右に出るものはいない。

―だって他にそんなくだらない趣味のヒトって関学じゃいないもん。

―うるさい! オカネでそれを買い集めればGDPにカウントされるけど、自分で採集してきたものを自分で調べて愛でて満足していれば、GDPにカウントされない。ぼくも昔は前者だったけど、これって欲求不満が溜まるばかりだ。いまはあきらめとともに後者の方に転向したから、ストレスは溜まらない。これからはそういうオカネでカウントされない趣味を持たなくっちゃだめだよ。メーカーだって次から次へと新製品を開発して売り上げを伸ばすよりも、売った製品の維持管理、補修で顧客と長い付き合いをすることを考えたほうがいい。右肩上がりの時代の再現を夢見ちゃいけないんだ。

―そんなバカな。右肩上がりをずうっと享受してきたセンセイたちはそれでいいかも知れないけど、そのセンセイたちの老後をみるのはワタシたちの世代じゃないですか。これから少子高齢化がどんどん進むんでしょう? ワタシたちの給料が上がることが期待できないって言うんだったら、ワタシたちにツケを押し付けてるようなもんじゃないですか。

―適正人口に向きだしたんだよ。それに確かに高齢者を支えるのはキミたち若い世代で、それが年々減少していくようになるんだけど、逆に考えれば若い世代のヒトたちは一人当たりの遺産の取り分は段々多くなってくるじゃないか。ま、それに関しちゃぼくだって不満はあるよ。だっていまのお年寄りは年金だってなんだって満額貰っている。貧しいお年寄りはそれでいいんだけど、役人で言えば現役時代散々美味しい思いをして、天下りしていまも年収何千万とっている連中、つまり闇の権力者たちまでが年金を満額取ってるんだぜ。ホント許せないと思うよ。そういう連中が綱紀粛正だの、コーゾーカイカクで福祉を切り下げろだのって騒いでいるんだもんな。ぼくらなんてのは仕事をしている限り年金はもらえないし、仕事をやめたって支給年齢は下がるばかりで、額も大幅カットだもん。

―でもワタシらの世代はもう年金なんて期待できないんでしょう?

―そういうなよ。第一キミなんか掛け金をそもそも払ってないじゃないか。これからの時代は左右とか労資の対立じゃないんだ。世代間対立と都市対地方の対立が主軸になるよ。それが地球規模で広がったのが南北問題であり、グローバリズムという名のアメリカンスタンダード化をよしとするか、そうでないかの対立だと思うな。コイズミ改革はそういう意味ではアメリカンスタンダード化を目指す強者の論理、勝ち組の論理だ。それに対するいわゆる守旧派的反対でなく、それの対極を目指す運動は欧州では緑の党という形で小さいながら実体的に姿を現しているんだけど、日本ではまだ姿が見えない。田中康夫の没ダム宣言がその芽にならないかって期待してるんだけど。

―脱ダム宣言でしょ。下手なシャレ言ってないで、月末の環境開発サミットがどうなりそうかを論じてください。「環境行政ウオッチング」なんですから。

―はい、わかりました(笑)。26日からヨハネスブルグで開かれるサミットはリオ+一〇と言われている。つまり、九二年にリオデジャネイロで開かれたいわゆる地球サミットから十年ということで、あのとき採択されたアジェンダ(行動計画)をフォローアップする会議だ。だけどブッシュは早々と欠席を決めたというし、先月バリ島で開かれた予備会合でも南北間の溝は開いたままで決裂状態だったらしい。だから或る意味では「失われた十年」ということを確認するだけに終わりそうな不吉な予感がするな。ま、この原稿が載る頃には結果はわかってるはずで、ぼくの予感が大きく外れていることを願うだけだよ。

―日本の環境省が南北間の接着剤の役割を果たせないんですか?

―そりゃ、むりだ。だって環境省のほんとの意味での出番なんかないと思うよ。要は途上国は、持続可能な発展のために開発援助を増やす、貧困を解決するというアジェンダの約束を先進国は果たしてないじゃないかの一点張りだし、事実日本も含めてほとんどの先進国がODA(政府開発援助)の対GNP比一%という約束を果たしてないばかりか、GNP比自体も下がっているし、南北格差はさらに拡がっているのが現状だ。つまり省庁で言えば財務省とか経産省マターの話で、京都議定書関連以外では環境省の出る幕はないんじゃないかな。先進国の経済成長はもはや頭打ちだから、ODAにまでは手が回らないと言うのが実情じゃなんだろうな。そういう意味では十月のCOP8の方が面白いかもしれない。

―でもこの十年間で総額では随分援助したんでしょう。だのになぜ豊かにならないんですか。

―ひとつは援助の中身の問題だ。北欧あたりでは援助に厳しく注文をつけているみたいだけど、日本は内政干渉になるからというので現地要請主義、つまり向こうの要請を第一に考える。でもねえ、実際には日本の商社なんかが向こうの政府に食い込んで、かれらの思惑どおりに向こうの政府に要請させることも多いらしいよ。そして向こうの腐敗権力層を太らせるとともに利益はこちらに還元させるという構造があるみたいだね、ま、日本だけじゃないと思うけど。つまり向こうの民衆が望んでいるような援助になっていないことが多いらしい。それから、援助には無償援助と有償援助つまり低利融資のふたつがある。無償援助というのは自立、自助努力を妨げるというので、ま、それも一理あるんだけど、有償援助が多いんだよね。それは返済しなければいけないから、結果的には毎年の援助額より返済額のほうが多かったりするみたいだ。

―そうなんですか

―ほんとのことは知らない。そちら方面の仕事はしたことがないからね。もちろん現在のODAでも大きなプラス面はあるんだろうけど、問題が多いことも事実みたいだ。海外青年協力隊とかそちらのほうの草の根レベルの援助を充実させるほうがいいという考えもあるんだけど、それもむつかしいらしいね。

―どうしてですか

―ひとつはコトバの壁。そしてもうひとつは行きたいという青年は多いんだけど、日本の会社も役所もそういう青年を送り出し、数年後に迎え入れるのを歓迎しないという体質があるらしい。そういう悪しき体質を変えるのがコーゾーカイカクだと思うんだけどね。

―なんか、暗い話ばっかりですね。今ごろは各省の予算要求もでそろった頃でしょう。そっちのほうでなんか明るい話はないんですか

―環境省はじめ各省もいろいろ知恵をしぼって、キャンペーンしている。新規要求もいろいろあるみたいだけど、やはり環境と循環型社会形成にシフトしているみたいだ。でもねえ、環境省も含めて、旧来型の公共事業をどーんとそれに振り替える、ハコはやめてソフトに切り替えるっていう発想にはなっていないね。虻蜂取らずになったらいやだということなんだろうけどね。

―自然再生事業なんて言い出しているじゃないですか。

―うん、昨年あたりから試行しだしたみたいだけど、いよいよ秋の国会では議員立法で法制化するって動きもあるみたいだよ。時間差攻撃のミテイゲーションだね。

―また、わけのわからないことを。

―ミテイゲーションって以前説明したことあっただろう? 開発に伴う環境影響を限りなくゼロに近づける手法ということになっているけど、開発が終わったあとからだっていいだろう? 自然再生事業ってのは各省が協力し合い、NGOなどの参加も得て、かつて公共事業などで破壊した環境を復元する事業だね。例えば直線化した河川を元の蛇行河川にもどすとかね。

―へえ、結構なことじゃないですか。でも各省がそんなことOKするんですか。いまの例だと、河川を直線化したことを自己否定するようなもんじゃないですか。

―当初の目的を達成したとか、時代の要請だとか、なんでとでもいいぬけられるさ。河川にしたって海岸にしたって、主だったところはもうあらかた改変し尽くしたから、公共事業の延命を図るためなら喜んで受け入れるよ。ただし、個々の事業に関しては環境省やNGOにいかにヘゲモニーを持たさないようにするかに腐心するだろうね。環境省にしてみれば、自らの権限下に置いて、施工だけを各省にさせるのが最終的な狙いだろうから、これから水面下で猛烈なつばぜりあいになるだろうな。NGOはNGOでいいように使われるだけだったら、たまらないだろうしね。

―浜の真砂は尽きるとも、役所の縄張り争いは永遠につづくってことですね。

―でも、これって土木的、工学的なハード事業に傾斜しすぎだと思うな。オカネもかかるし、形だけ蛇行河川に戻してもホントに自然再生できるのか。多くの場合、自然環境ってのは、人為を拒んできた環境じゃなくて、ヒトと共生してきた結果なんだ。別にヒトが共生しようとしてやったのじゃないけど、生きるために干渉してきたし、そういう生き方、ライフスタイルを何千年とやってきたんだよね。里山なんてのはそういうライフスタイルが生み出した環境なんだけど、それが完全に滅んだ現在、昔のような里山を維持するのが不可能になってしまった。つまり工業化・都市化に伴う古典的な公害は「病理」だった。病理はクスリで直せる。だけど自然と生活との共生の様相が変貌したというのは文明の病理というより「生理」だよね。生理を変えるのは本来的には日々の「鍛錬」しかない。いま、その「鍛錬」ができるかどうかが問われているんだけど、環境省はその部分をNGOに期待しているみたいだな。そういう意味では国立公園のグリーンワーカー事業なんてのとリンクさせることが必要かも知らないねえ。

―グリーンワーカー事業?

―うん、自然公園の施設整備は年間百億円台の国費を投入しているけど、維持管理とかさまざまなソフト事業にはほとんど予算がなかったんだ。それがようやく去年一億円の予算がグリーンワーカー事業ということで付いた。昔のレンジャーが手作りでやってきたようなことをもっとおおがかりにやるようなもんだ。それでもまだ一億円だから、施設整備事業なんてのは大幅カットして、そのカネを回せば日本の国立公園はもっとよくなるよ。

―国立公園て言えばセンセイは昔は国立公園のレンジャーだったんでしょう。

―そう、いくつかの国立公園では一応管理事務所があって、所長以下数名の小さいながら「組織」といえるところもあったけど、残りの大半は単独駐在って言って、霞ヶ関の末端の職員がポツンと一人駐在していたんだ。ぼくはその単独駐在を三箇所で延べ十年近くやってた。山の中や海辺で事務所兼住宅に住んでたんだ。

―レンジャーって遭難救助したり、パトロールして悪いひとをつかまえたり、自然解説したりするんですよねえ。わたし前から不思議だったんだけど、運動神経も鈍くて、樹木も鳥の名前もほとんど知らないセンセイがよくレンジャーなんてできましたよねえ。

―(憮然として)なんでキミにそんなこと言われなくちゃいけないんだ。失敬な!

―(気にせずに)でも、アメリカにはレンジャーって一万人以上もいるんでしょう。日本はやっと二百人、センセイの現役のころには百人だったんですってね。日本ってほんとお粗末ですよねえ。

―(怒りを堪えて)キミじゃなくてあの××君だったら、ぶんなぐってやるんだけど、ま、いいや説明してやるよ。アメリカの国立公園と日本の国立公園ではまず面積がちがう。面積あたりいえば、もう少し差は縮まるけど、それは本質的なことじゃない。アメリカでは利用者のための施設の整備や管理、自然解説や野生生物の調査から治療までさまざまな分担を持った多くのレンジャーがいて、国立公園のなかで火事が起きたり、遭難事故が起きたりしても、その対応はレンジャーが行う。日本じゃ、火事は消防署だし、遭難は県警の出番だ。そもそもシステムが違うんだから人数を比較しても意味がない。

―どういうことですか。同じNational Park じゃないですか。

―アメリカっていうか、世界のたいていの国じゃ、国立公園というのは国が土地の所有権なり管理権を持ってる公園専用地になっている。アメリカの場合は内務省の国立公園局が土地を管理しているんだ。日本では、土地の所有権や管理権を持っていなくて、他人の土地をすぐれた自然の風景地だからという理由でもって、法律で指定・規制しているんだ。でも一方じゃ、憲法で財産権を保障しているから、規制するといっても限度がある。国有地が半分以上はあるけど、そのほとんどは林野庁が管理する国有林で、かれらは特別会計、つまり林業経営でメシを食っている。だから、日本の場合、国立公園のなかに人は住んでいるし、木は切り出しているし、さまざまな産業活動もしている。家を建てたり、道路を作ったり、開墾したりすることも、手続きを踏めば(ときには手続きなしでも)可能なんだ。そういう土地利用の調整がたいへんなんだ。で、レンジャーと言っても、日本の場合は、その仕事の大半はそうした許認可の指導・調整になってしまう。でもテレビなんかじゃ、それでは絵にならないから、パトロールだとか自然解説のところばかりとりあげる。だから、そういう誤解が生まれるんだけど、日本の場合、レンジャーというのはナチュラリストでなく、あくまで行政官なんだ。だから運動神経は関係ないし、自分が樹木の名前を知っているよりも、樹木の名前を知っている人のネットワークを作り上げられる才能のほうが必要なんだ。(うーん、自分でも弁解臭いな)

―なんだ、じゃ、そういう事務的なことばっかりやってたんですか。つまんない。

―そんなことはないよ。だって、当時は組織の体を成しておらず、霞ヶ関の職員が単身で事務所兼住宅に住んでいるんだから、たとえ霞ヶ関の序列では下っ端であっても、一見ミスター環境庁として、地元の市町村や旅館の親父さんたちや住民と接するんだもん、たいへんなことも面白いこともあったさ。ちやほやされたり、おそれられたりもした。地元の人に信頼されるためには、夜一緒に飲んだり、愚痴を聞いてあげなくちゃいけないこともあったしね。ただ法律と建前だけ振りかざして、事務的にあるいは強権的に接したらいいというもんじゃないんだ。

―はーん、センセイは地元の人の無知と人情をうまく利用して散々只酒を飲んだんだ。

―人聞きの悪いことをいうなよ。そういうことはもちろんあったけど、事務所兼住宅に訪ねてきた人には酒を振舞ったりもしたよ。それとね、昭和四十年代の頃だけど、都会では公害反対運動が盛んだった。同じようにスカイラインやロープウエイなどの観光開発に反対する自然保護運動も盛んだったんだけど、それは公害反対運動とはちがって、いわば他所者の運動でね、地元ではそれに対する反感がすごかったことも忘れちゃならない。そういうときのレンジャーってのは或る意味では板挟みでね、地元のひとに対しては、安易な外部資本を入れた開発をすることは結局は自分たちの首をしめることにつながるって啓蒙・説得しつつ、反対運動の人たちには地元の人たちの悩み苦しみを共有せずに、ただ反対だけするのはかえって地元の反発を買うだけだと言って、双方の反発を食らったりもした。で、上はいきなり霞ヶ関ということになるから、実際は個々のレンジャーがてづくりで仕事を作っていたような面も多かったな。

―(疑わしげに)なんか、コトバだけ聞くとすごくかっこいいじゃないですか。

―それと地元のひとたちにはレンジャーっていうのはただ規制するだけじゃなくて、目に見える形で地元にも貢献しているというのを見せなくちゃいけないというんで、地元の人たちを組織して任意団体をつくり、みんなで清掃したり、その団体のカネで学生のバイトを使って山のパトロールや清掃もさせた。でも泊まるところがあるわけじゃないから、夏の間は狭い事務所兼住宅には常時十人前後が泊まってたりして、いまにして思うと懐かしいよ。

―へえ、おもしろそうだ。いまもそうなんですか。

―いや、もうそんな非組織的なことはしてないと思うよ。あの頃だからできたんだ。じつはぼくがレンジャーのあと、霞ヶ関に戻って全国の国立公園の許認可の窓口の仕事をしたんだけど、とにかく申請の数がすごいんだ。電柱一本立てる申請まで霞ヶ関に来るんだもの。あまりの数のすごさに閉口して、この許認可の権限のうち軽易なものを現地に下ろそうとした。許認可は名目的には環境庁長官がするんだけど、実際は専決といって、権限は局長に下ろされていた。それをさらに下ろすには最低でも所長でなくちゃならないんだけど、当時はちゃんとした所長がいる国立公園管理事務所は全国で十しかなかった。でも国立公園は※二十七あったから、法のもとの平等の原則に反するというので、それがネックになっていた。或る日、ふと思いついたんだ。大阪営林局というのは大阪だけじゃない、近畿全部を管轄している。じゃ、阿蘇国立公園管理事務所と言うのは阿蘇国立公園の管理事務所ではなくて、阿蘇にある九州地区の国立公園管理事務所とみなしてもいいじゃないかって。霧島屋久国立公園えびの高原のレンジャーは阿蘇国立公園管理事務所の所員にしてしまえばいいって。当時の法律屋は呆れていたね。役人と言うのはどんなことがあっても権限を手放さないものだのに、自分から屁理屈をこねて手放そうとするんですかって。

     ※そのご釧路湿原が指定され、現在は二十八国立公園になった。

―で、どうなったんですか。

―数ヶ月は不眠不休だったけど、みごと実現した。それから二十年、所長の格もだいぶ上がったし、いまや自然保護事務所となり、公園の外のことまで権限が及ぶようになった。もちろんそれは時代の流れで、遅かれ早かれそうなったろうから、ぼくの功績でもなんでもない。でも例えば朝の連ドラにもでてきた吉野熊野国立公園管理事務所は和歌山の新宮にあったんだけど、いまでは近畿地区自然保護事務所になり、今年大阪市内に移転した。そういう「組織」という意味ではよかったんだろうけど、いまもいる現地の単独駐在のレンジャーの地位は相対的に下がったかも知れないし、仕事もおもしろくなくなっただろうなあ。地元の人の目も所長に向くだろうし。それにいま民間の接待はダメということになり、酒を酌み交わすことだってむつかしくなった。第一、「行政指導」ってものが不透明だとして、世間では叩かれる時代になってしまった。そんなんでレンジャーの仕事ができるのかって、いささか不安になるのも事実だよ。

―自分は美味しい思いをして、後輩にはそれをさせないようにしたんですね。センセイって結局はさっき罵倒していた昔の高級官僚と同じじゃないですか、もっと小者だというだけで。

―うるさい、うるさい、本日はこれで終り!

(二〇〇二年八月十五日)