環境漫才への招待

脱ダムの行方と環境教育

白装束

(川辺川ダム高裁判決)

―センセ、センセイ。鹿児島のお隣、川辺川ダムの高裁判決がでましたねえ。あれをどうみます?

―あれはダムそのものじゃなくて、ダムを水源とする利水事業、つまり土地改良事業の計画を決定していたんだけど、その際受益者の三分の二の同意がいる。その同意書のなかにはインチキなものがあり、それをカウントすると三分の二にはならないから無効だって判決だ。

―じゃ、ダムの建設には直接関係ないんですか。

―そんなことはない、あれは多目的ダム、つまり利水、治水双方が目的になっている。そのうち利水について手続きが不当だということになれば、やり直すか、治水目的のみに変更しなければならないけど、そのためには県知事の同意だとか議決が必要。でもねえ、治水にしたって不要だという、かなり強い地元反対派の意見があるし、公共事業削減というのが本音かどうかはともかく地方レベルでもコンセンサスが得られつつあるから、中止になる可能性も高いんじゃないかな。もっとも農水大臣は計画を若干見直し、手続きをやりなおして、あくまで事業を続行すると強気な発言してたけどね。

―え? 治水にも効果がないって

―ま、もちろん効果がないわけじゃないだろうけど、その効果は多額の税金を使い、すばらしい水環境を破壊してつくる巨大なダムよりはるかにちいさいし、治水なら他にやりかたもあるってことだろう。国土交通省は治水のために絶対必要だと主張するだろうけどね。どっちが正しいかしらないけど、少なくとも地元のかなりの人たちが反対しているような公共事業はもはややるべきじゃないと思うよ。そういう時代になったんだ。裁判官の判断だってバックにそういう社会の流れのことが潜在的にあったのかもしれない。

―センセイの川辺川ダムに対する個人的感想は?

―もう二十年もまえにいちど見ただけで、ぼくは関係者でもなんでもないから黙ってるよ。

―でも、やっぱり反対でしょう。

―(ニタッと、うなずく)

(淀川水系脱ダムの行方)

―あ、そうそう、ダムじゃもうひとつありますよ。センセイ、これみてください(新聞記事を差し出す)

―え、なになに。「脱ダム提言生きず」? なんのことだい?

―前号で淀川水系流域委員会の脱ダム提言について国土交通省が怒り狂ってるんじゃないかってボク言ったんですよ。そしたらセンセイ、なんていいました?

―そんなの覚えてないよ。忘却とは忘れ去ることなりだ。

―なに、わけのわかんないこと言ってるんですか。これをみてください。

―そう言えば1月に淀川水系流域委員会が脱ダムを提言しましたねえ。あれには国土交通省も怒り狂ってるんじゃないですか。

―そんなことはないよ。国土交通省も承知の上の出来レースに決まってるじゃないか、委員を選ぶのは国土交通省なんだから。つまり、国土交通省は大きな反対運動が予想できるようなところでのダム建設はあきらめるって遅まきながら宣言したんだと思うよ。 この記事には、国土交通省近畿地方整備局は委員会の提言に対して五つのダムとも、「現段階では建設は有効」って見解を述べたんですよ。ちょっとも出来レースじゃないじゃないですか。

―(うろたえて)うーん、なるほどねえ。落としどころについての役人の読み違いかな、それともコントロール能力を失ったのかなあ。いやいや、国士型官僚から利害調整型官僚に変わったと思い込んでいたんだが、もはや成行任せ官僚に変わったのかなあ(ブツブツ)。

―(額に手をあてようとする)

―おい、やめろ。ぼくにホモの気はない。

―失礼な! なにかブツブツ言ってるから、熱出したのかって心配してあげたんじゃないですか。まさかSARSじゃないでしょうね。

―いやあ、ゴメン、ゴメン。うーん、ちょっとびっくりしたんだ。ぼくらが役人の頃には、役人というのは利害関係者の反応を考えながら、みんなが渋々ながら納得するような「落としどころ」を見付け、それに向けて誘導するもんだったんだ。委員会なんてのもその道具だった。もちろん、根回しするし、選んだ委員の意見も柔軟に取り入れて、可能な限り修正もするし、場合に寄っては真っ向から反対するような先生にも一人二人は入ってもらい、それにより御用委員会じゃないってアリバイつくりなんてのもしたもんだ。やっぱり時代が変わったんだねえ。

―どう変わったんですか。

―ひとつは委員の選び方で、学識経験者を国土交通省が選ぶんでなく公募制みたいなのをとったのかもしれない。そして根回しなんていうことをせずに自由闊達に議論してもらったんかもしれない。もちろん、事務局が委員を説得しきれなかったのかもしれないんだけど。ひょっとすると利害関係者のだれもが渋々ながら納得する落としどころなんて考えられなくなった、或いは落としどころなんて傲慢なことを考えるのは役人の僭越だって考えられる時代に入ったのかもしれないねえ。

―だとしたら、提言にそのまま乗っかればよかったんじゃないですか。

―地元が納得しなかったのかもしれないし、多元化時代に入ったから、国土交通省と地元市町村、流域委員会が独立した対等の立場で公開の議論を行っていけばいいと腹をくくったのかもしれない。

―そんなあ。だって平行線のまま行けば、最後はだれが結論を出すんですか。

―議論していくうちに、そのこともいずれ落ち着くところに落ち着くし、落ち着かなければ、それもまたよしってことかな。キミ、この経緯をこんごもずうっと追っていってごらん。Σだとか∫ の記号にわけのわかんない変数ばかりを並べてなんとかモデルだなんて言ってる、くだらない研究論文より、よっぽどいい卒論ができるよ。

―(ニタリ)センセイは英語だけじゃなくて、数学もできなかったんですね。マトモな論文が書けないわけだ。

―ほっといてくれ!

―はいはい、でも、落としどころが見つからないことだって昔からいっぱいあったでしょう。そういうとき、昔の役人はどうしたんですか。

―そのときは調査とか検討とか言って先送りというのがひとつのパターンだよね。そのまえに可能ならば逃げて、よそに押し付ける。役所の権限争いってよく言うよね。でも、それにはふたつあるんだ。一つは積極的権限争い、これはだれでも知ってるよね。で、もうひとつが消極的権限争い。落としどころがみつかりそうにないときには、しばしば、「それはウチの仕事じゃない」って言って、お互いに別の部局だって押し付けあうんだ。

―へえ、消極的権限争い? 

―例えば八十年前後に温暖化問題が日本に輸入されたときには、環境庁と気象庁が消極的権限争いをした。結局環境庁が引き受けることになったんだけど、それをどの部局にするかっていうとき、環境庁内部でまた押し付け合いがあった。でもねえ、80年代も終わり近くなると、国際的に炭酸ガスの排出抑制に向かわざるをえないという見通し、つまり落としどころが見えてきた。そのためには法律の制定とか、予算の確保とか組織の拡大につながるようなことがいっぱいある。となると、どの省もこんどはウチの出番だといって積極的権限争いがはじまった。

―なるほどねえ。でもそういうのは全部水面下だったんですね。そういう意味では情報公開が相当進んだんですね。でも、淀川流域のダムの件は、センセイは賛成なんですか?

―一個、一個自分で調べたわけじゃないから、なんともいえないなあ。

―だけど反対なんでしょう?

―(苦笑い)あんまり言わすよな。なんであんなカゲキ派に書かすんだって桑畑さんが批難されちゃうよ。

―はいはい、で、これからどうなっていくんでしょうねえ。

―基本的に大阪地域の水の需要は余っているし、世界的にも脱ダムの流れにあるし、だいいち日本は借金漬けで、このあいだの統一地方選挙をみても、公共事業削減をみんな言いだしてるから、もはやできないんじゃないかなあ。問題は昔、ダム建設を無理やり納得させられて、ダム建設を前提に地域おこしを考えざるをえなくなった人たちを、どうやって説得し、自立を援助できるかだと思うよ。

(徳島知事選―長野の再現ならず)

―センセイ、もうひとつ。徳島知事選ですが、長野の田中康夫と同じような経緯をたどって、不信任、失職、再選挙になりましたよね。でも結果は大きく違いました。なんででしょうねえ。

―ま、タマが田中康夫ほどのカリスマ性がなかった。基本的に組織人だから、過去のいきさつだとか、市町村、県庁内部、県会の意向なんかを気にしすぎて、結局徳島空港の工事は再開しちゃったし、吉野川第十可動堰にしたって国土交通省に対する断固たる姿勢にでなかった。個人的には田中康夫より、よっぽど善人だと思うし、元役人としては好感が持てるけど、やぶれかぶれで突進するというところがなかった。それが物足りなかったんじゃないかと思うけどなあ。

―相対的に相手のタマのほうがよかったということですか?

―それはちがうと思うな。長野の場合は、いわゆる守旧派は選挙戦の前面に公然と立たず、対立候補のほうもみかけじょう市民派をよそおった。だから、大敗しちゃった。守旧派は今回の徳島ではなりふり構わない徹底した組織選挙をやった。それが辛うじて効を奏したんじゃないかな。

―このまえの統一地方選挙でも、概して保守派の推す候補が辛勝しましたよね。センセイのお好きな地方の反乱は頓挫したんじゃないですか。

―そうでもないさ。知事選では、ほとんどの候補者が、雇用の確保とかに加えて、公共事業の削減を言い出した。中央とのパイプの太さを誇示して、公共事業を誘致して補助金を取ってきますという手合いが姿を消したし、政党色も薄めてきた。いわゆるマニフェストも、そうした流れのなかで、出てきたんだ。いずれにせよ、ほとんどすべての候補者が口先だけは開発より環境や生活優先にシフトしたことは特記されていいことだと思うよ。

―え、マニフェスト? マニフェストって産廃の管理票のことじゃなかったんですか?

―最近、別の意味で使われだし、流行語になってるんだ。

―えっ、そうなんですか? たしかマニフェストって「宣言」って意味がありましたよね。

―そう、「共産党宣言」は「マニフェスト・オブ・コミュニストパーテイ」と、言うんだ。選挙になると「公約」ってことがよく言われていたんだけど、あれもします、これもしますと言う口当たりのいい抽象的なことばっかりだった。そんないままでの「公約」じゃなくて、具体的な数値目標を明らかにし、達成期限や財源も明示して県民と契約を交わす「政策綱領」のような意味で使いだしたんだ。環境関係のいろんな計画でも、夢や理念、総論賛成みたいなことを語るだけでなく、マイナス面、もちろん現在の価値観のうえからだけど、も明らかにした、具体的なマニフェストつくりが必要かもしれないね。「循環型社会」なんてコトバはきれいだけど、実際にそれが実現されたら結構わずらわしいし、不自由な社会だと思うよ。そのことを突きつけ、にもかかわらず、それを達成できなければ、どうなるかということをきちんと説得し切れなければ、循環型社会というお経の文句を唱えながら、ヒト社会は自滅していかないとも限らない。

―センセ、センセイ、もっと具体的な話をお願いしますよ。

(自然再生事業と環境教育)

―ちょっと風呂敷を広げすぎたかな、いずれにせよ、国土交通省にしたって、農水省にしたって、着工済みのような奴はいきがかりってものがあるからどうなるか判らないけど、新しくやろうとする事業はみんなが賛成するような環境配慮型あるいは自然再生型事業に軸足を置くにちがいないと思うよ。自然再生推進法もできたことだしね。でも問題は自然を復元するだけじゃないんだ。復元した自然とどういう風に付き合うかということだよね。だから環境教育が重要なんだ。

―どういうことですか?

―多くの場合、ヒトが親しんできた自然環境ってのは、人為を拒んできた環境じゃなくて、ヒトと共生してきた結果なんだ。別にヒトが共生しようとしてやったのじゃないけど、生きるために干渉してきたし、そういう生き方、ライフスタイルを何千年とやってきたんだよね。里山なんてのはそういうライフスタイルが生み出した環境なんだ。でも生き方自体も変わってしまった。昔は都会の真ん中に住んでいても、或る意味では自然と共生していた。

―え? どういう風に?

―だって、食べ物なんて、基本的に自然、つまり季節によって強制されていたし、台風が来るとなると、窓に板を打ち付けたり、停電に備えてろうそくを準備したりした。暑い夏は窓をあけっぱなしにして、蚊取り線香をつけて団扇でぱたぱた。

―そんなの共生っていうんですか?

―そうだよ、昔は自然と共生してただとか循環型社会だったってよく言うけど、それはやむなくそうしていたんだ。自然の恵みを受けるとともに、自然の恐怖にもおびえながら、自然とともに、そして地域の人々とともに生活していたんだ。でもそうした社会は完全に滅んでしまった。ぼくがこどものころは人々の三分の二3が田舎に住んでいた。いまじゃ三分の二が都会暮らしだし、田舎に住んでいる人だって、暮らしそのものは都会と同様の暮らしだ。エアコンつけて、クルマに乗って。

―それがいけないというんですか。センセだってクルマ乗り回しているじゃないですか。

―いけないとは言ってないよ。ただね、それを文明の進歩だとして、無条件に謳歌するんでなくて、頭の片隅でいいから、これでほんとうにいいのかという疑問を持つことが必要だと言ってるんだ。大体、こんな暮らしを世界六十億の人が享受するだけのゆとりを地球は持ってないんだ。しかもそれが温暖化だとかヒートアイランドだとか、ひょっとするとヒトの存亡に関わるかもしれない問題の原因なんだから。

―センセ、センセイ。どんどん環境教育の話題と離れていってしまうんだけど。

―そんなことはない、だから先人の自然とのつきあいかたをせめても追体験することこそが、生きた環境教育の第一歩だし、新たな循環型社会を考えることにつながる。 工業化・都市化に伴う古典的な公害は「病理」だった。病理はクスリで直せる。これが七十年前後の公害規制なり、すぐれた自然の保護ってことだった。だけど自然と生活との共生の様相が変貌したというのは文明の「病理」というより「生理」だよね。生理を変えるのは本来的には日々の「鍛錬」しかない。それこそがそ環境教育なんだ。一番最初に言った自然再生事業なんだけど、釧路湿原だとか四万十川だとかの大型の事業もいいけど、もっと身近なところに失った水辺をつくるみたいなことを進めなくちゃいけないと思うよ。

―たとえば?

―三面張りの川のところどこにちょこっとした水辺をつくり、そこに降りられるようにしたり、溜池だったら転落死を防ぐための段差だけつけて立入禁止柵を外すとか、学校のなかにてづくりでビオトープをつくるとかね。可能ならば、それをすべて行政がやるんじゃなくて、市民やNGOが計画し参加してほとんどオカネのかからないような事業をほうぼうでやるべきだと思うな。そして、そこで昔の知識と知恵を持ったお年寄りたちに昔の自然とのつきあいかたを教えてもらう。

(環境教育・環境学習推進法案)

―そういえば、たしか環境教育・環境学習推進法を作ろうって動きがあるんですよね。

―そう、骨子案が去年の五月にできて、今年中にでも議員立法でなんとか成立させようとしているみたいだね。

―どんな内容なんですか。

―学校では環境教育という科目を設け、専任の教員を置く。また、市町村は住民に、事業者は従業員に環境教育を行う義務を背負わせるというんだけどねえ。

―センセイは反対なんですか。

―反対じゃないよ。もちろん賛成だよ。問題は環境教育のイメージだ。

―どういうことですか?

―中学でも高校でも各教科の教科書にはいっぱい環境のことが書いてあるよ。

―書いてあったって、理解してなければしようがないじゃないですか。そのためにも環境教育という科目をつくるっていうんでしょう?

―でもねえ、知識レベルでいえば、環境教育先進国といわれるドイツより、日本のほうが、正しい環境に関する科学的知識を持っているという調査結果もある。だからさっき言ったように環境教育の科目を設けるだけでなく、学校での空間、時間全体が或る意味での環境教育の場とするような工夫が必要だ。そのためには環境教育専任の教師だけでなく、教師全員が最低一月は実地研修を受け、先人の知識と知恵を共有するようなことも必要だと思うけどな。

―センセイ、それ大学で実践してます?

―(話題を急に変える)さあ、もう時間だ。じゃ、また。

―あーあ、今回もまた環境行政ウオッチングというタイトルには程遠かったな。

(二〇〇三年五月二十日)