環境編 − Hキョージュの環境小論

場としての水環境の捉え方 ―瀬戸内法行政の検証―

(はじめに)

「瀬戸内海環境保全特別措置法(以下「瀬戸内法」と呼ぶ)」の前身である「瀬戸内海環境保全臨時措置法(以下「旧法」と呼ぶ)」が、全会一致の議員立法として成立したのは昭和48年のことであった。以降、旧法、瀬戸内法により推進されてきた一連の行政施策を「瀬戸内法行政」と呼ぶことにする。筆者は、瀬戸内法行政は環境行政の中できわめて特異な位置を占めてきたし、水環境という場の捉え方や環境管理という手法についての先見的な役割を担ってきたのでないかと考えている。瀬戸内法行政開始後四半世紀を経て、環境行政自体も大きく様変わりしている今日、その特異性と先見性とはなんだったのか、そしてその成果と限界は奈辺にあるのかを、かつて瀬戸内法行政の当事者であった筆者なりに検証してみようというのが本稿の狙いである。

1.瀬戸内法行政の三点セット

瀬戸内法行政の根幹をなすのは、瀬戸内法そのものと、政府の策定した「瀬戸内海環境保全基本計画」(以下「瀬戸内計画」と呼ぶ)、瀬戸内海環境保全審議会の答申した「埋立の基本方針」の三つ、いわゆる三点セットである。図1に瀬戸内法対象地域、図2、3,4に三点セットの基本的なフレームを示す。

瀬戸内計画について補足をしておくと、瀬戸内計画は「序説」、「計画の目標」「目標達成のための基本的な施策」の三つからなっている。序説では「計画策定の意義」、「計画の性格」、「計画の範囲」について述べている。図3では省略してあるが、計画の範囲を「水質の保全、海面及びこれと一体をなす陸域における自然景観の保全並びにこれらの保全と密接に関連する動植物の生育環境等の保全」としており、水質のみならず景観や漁業資源、生態系の保全も含めた、今日で言う<水環境>を一体的なものとして対象にしていることがわかる。また計画の目標については定量的なものは明示していない。目標達成のための基本的な施策として12項目を掲げているが、計画の目標と1対1で対応した構成になっておらず、施策というレベルで項を分けたものである。これらの施策は法の規定といずれもリンクしているものであるが、他省庁施策に関わるものは努力規定にとどまっている。

また、埋立の基本方針については前文で「厳に抑制すべきであり、やむをえず認める場合」の基本方針であるとしているが、「やむをえず認める場合」とはなにかについては具体的な言及も例示もないことに注意を要する。

2.,水環境と環境管理の視点

瀬戸内法行政の特徴は、瀬戸内海を沿岸も含めてトータルな水環境の場と捉えたうえでの総合的な環境管理を図るという志の高い視点である。目指したのは、単にCOD指標で象徴される狭義の水質保全だけではなく、前節でみたように自然海浜、藻場・干潟の保全や景観と自然的レクレーション空間の保全・回復、そして生態系の保全をも視野に入れたクロスオーバー的なものであった。明示はしていないものの、そこには水だけが澄んでもしかたがないという住民の本能というか直感が反映されていたし、それは海域の自浄能力の回復、生物多様性や親水性の保全確保、あえていえば循環・共生とか持続性といった今日的な視点も萌芽的に内包していた。また、その目標達成のためには排水規制という従前からの自らのツールの徹底化のみならず、他省庁施策を目標達成のための手段として体系的に統合し、既存制度で対応しえないものは瀬戸内法行政のなかで新たな制度として具現化しようとした(それの具体的なあらわれの一つは自然海浜保全地区制度であろう)すぐれて環境管理的なものであった。

環境庁は公害の未然防止とすぐれた自然の保護を理念的には車の両輪としてスタートしたが、実務的な観点からいえば、自然保護、大気保全、水質保全等々はそれぞれ根拠法も所管も異なり、とくにリンクしているわけではない。また公害諸法に関して言えば環境庁が所管したものは規制法であり、保全のための事業は他=多省庁の所管であった。

瀬戸内法行政はとにかくも省庁部局の枠を越えて、それらの多くをひとつのパースペクテイブのもとに取り込んだのである。後年、水質保全局では湖沼水質保全特別措置法(昭和59年)に根拠をもつ湖沼水質保全計画に、そうした理念を取りこむのに成功しているが、これに瀬戸内計画の影響を読むのは容易であろう。

また、激烈な産業公害が一応沈静化し、都市生活型公害と身近な自然の保全・復元が問題になってきた昭和50年代半ば頃から、地方自治体では地域環境管理計画と呼ばれるものをつぎつぎと制定していった。地域環境管理計画は一般的には一連のビジョン、シナリオ、プログラムを提示するものであり、地域総合計画の環境版であり、地域総合計画実施の環境保全面からのガイドライン的な役割を担うものと理解されているが、瀬戸内計画はそうしたものの嚆矢といって過言でなかろう。

また瀬戸内法の対象区域は沿岸府県だけでなく上流府県も含めた流域圏全体であることも先見性のあらわれといえよう。今日では、源流の森の伐採が海の生態系にまで影響を及ぼす可能性が無視しえず、流域全体の保全という視点が重要になってきている。当時瀬戸内法行政にそういう明確な問題意識はなかったにせよ、その萌芽をみることも不可能ではない。

そうした流れの集大成として、平成5年の環境基本法の制定と翌年の環境基本計画の結実に至るのであるが、それの理念的な源流の一部は瀬戸内法行政にあるというのは身贔屓に過ぎるだろうか。

3.その他の先見的・先駆的な諸施策

個々の行政施策も先見的・先駆的なものがいくつかある。

最大のものはCODの量規制である。水質汚濁防止法が同時期改定強化されたとはいえ、依然排水基準強化という濃度規制にとどまったのに対し、旧法ではさらに量規制の観点から事業系CODの負荷総量を半分にするという荒療治を行った。これはのちに東京湾、伊勢湾とあわせての総量規制制度を生み出す原動力となった。(図5)

また、赤潮や富栄養化対策については、早くから燐、窒素対策の必要性が指摘されていたにもかかわらず、赤潮発生機構がなお不確定性を有したものであることから産業界の抵抗が強く、公的な抑制指導すら拒まれていた中で、いちはやく燐の削減指導規定が盛り込まれたことも特筆されよう(平成6年には窒素も削減指導対象となった)。湖沼における燐・窒素規制がはじまる以前であり、海域におけるそれが導入されたのが、つい先日のことであるのに対比すると、いかに先駆性に富んだ取り組みをしてきたかは明確であろう。

埋め立てに関しては昭和48年、公有水面埋立法が改正され埋立免許基準に環境への配慮が明記された。規模の大きい埋立案件については一種の環境アセスメントが必要とされ、環境庁の関与もなされるようになったが、基本的な環境庁のスタンスとしては、環境への影響が軽微かどうかを問題にするだけで、今日でも埋立そのものについてはニュートラルな価値判断しかなしえないのであるが、瀬戸内法行政では少なくとも場としての水環境の保全という観点から、理念的にそれが抑制すべきことを明示していることは特筆されるべきであろう。

4.瀬戸内法行政の歴史と推進主体

さて、前節でみたように瀬戸内法行政はすこぶる先見性に富んだものであったが、細分化された縦割り行政のなかで、それがなぜ可能になったか。その秘密こそが、そのユニークな出自である。

4−1 旧法制定まで

周知のとおり、昭和40年代に入り、日本全体を襲った激烈な公害の波のなかで、住民の声を反映してつぎつぎと自治体では公害防止のための組織や条例を整備するとともに、国に対しても抜本的な公害防止対策を迫った。また日本を代表するようなすぐれた自然も観光開発の波にさらされ、各地で自然保護団体が結成され、反対運動が広がっていった。こうした中で公害対策基本法が制定され(昭和43年)、昭和45年のいわゆる公害国会で、公害諸法の強化や新規制定がなされ、翌年環境庁設置がなされた。

高度経済成長時代の瀬戸内海における環境破壊がいかにすさまじいものであったか、そしてそれに対応してどういう運動がなされ、旧法として結実していったかについては例えば参考文献1)を参照願いたいが、沿岸住民の不安感が募るなかで、自治体の危機感と自治体間の連携も深まり、昭和46年7月沿岸11府県3政令市首長で構成された「瀬戸内海環境保全知事市長会議(以下「知事市長会議」と呼ぶ)」が結成されたのが大きなメルクマールであった。

第一回会議では「瀬戸内海環境保全憲章」が採択された。これが瀬戸内海環境ビジョンの第一歩であり、のちの瀬戸内計画の出発点となった。同時に、政府に瀬戸内海だけを対象にした環境保全法の制定を要請した。同年10月政府は環境庁長官を会長とする関係省庁よりなる「瀬戸内海環境保全対策推進会議」を設置、各省が個々バラバラに行うのでなく、連絡調整をとりつつ総合的な対策を実施することを申し合わせるが、この時点では法制化にはなお消極的であった。47年夏には播磨沖で大規模な赤潮被害が発生し、瀬戸内海の環境保全法制定を要望する声はさらに大きくなった。自治体が議員を動かし、各政党もその方向で動き始めた。施策が多省庁にまたがるものであることから、議員立法とする方向で自民党環境部会瀬戸内海汚染対策特別小委員会(林委員長)が中心になって動き、いわゆる林原案がまとめられ、各党各省との調整がはじめられた。

林原案の骨格は瀬戸内計画、事業系COD1/2カット、水質汚濁防止法でいう特定施設の許可制、それに埋立の原則禁止の4つであった。埋立については一部地域から異論があり、現行のものにトーンダウンし、結局審議会にゲタを預ける形になった他は、党内からも産業界からもとくに強い異論はなかったようである。まだ環境追い風はつづいていたのである。かくて昭和48年、全会一致で旧法が上程可決されたのである。他の環境法制はいずれも自治体の強い要望があったものの、法案そのものは政府部内で調整した政府提案であったが、旧法だけはそうではなかったのである。もっとも議員立法とはいっても、多くは省庁が最初から最後までお膳立てするそうであるが、某氏から聞いた話では、林原案作成にあたっては環境庁は最終段階までノータッチで、もっぱら自治体の環境部局がサポートしたという。

つまり自治体連合が政府を押し切って法律を作り、政府にそれを執行する組織(環境庁水質保全局瀬戸内海環境対策室―現在は瀬戸内海環境保全室)を作らせたのである。旧法も瀬戸内法も審議会の設置規定を置いているが、関係自治体の長またはその推薦する者が定員の過半を占めるなど、中央集権国家日本としてはめずらしい自治体連合主導型の行政としてスタートしたのである。

かくてあまたある環境法制のなかで、唯一地域名を冠した総合的な水環境の保全法が誕生したのであるが、そのことは、瀬戸内海での環境破壊のすさまじさを象徴しているとともに、瀬戸内海が日本の歴史・文化のうえでいかに重要であったかを物語っているし、とりわけ沿岸府県住民にとって瀬戸内海は古来からの精神的な支えであり、誇りであり、住民の紐帯のシンボルであったことを示すものであろう。

4−2 旧法から瀬戸内法へ

旧法は3年間の時限立法であった。この間にCOD1/2カットの割り当て、埋立の基本方針の答申がなされた。だが瀬戸内計画の策定は難航し、さらに2年間延長された。そして期限ぎりぎりになってようやく瀬戸内計画の閣議決定がなされた。難航の原因はつまびらかでないが、あれだけ吹き荒れた環境追い風が48年オイルショックを契機に急速に弱まっていったこと、また瀬戸内計画の内容がまえに見たように目標や施策が定量的なものでないことにも関連があるのかもしれない。ただ、永久法としての後継法を政府(環境庁)提案で行うことは約束されていた。

全国を襲った激烈な公害の沈静化とともに、住民の圧力も減少していき、アセス法も結局挫折してしまう時代のなかで、後継法案つくりは難航した。その間のいきさつは参考文献2) が生々しくヴィヴィッドに伝えてくれる。後継法の当初案の目玉は第一に水質汚濁防止法の改正と併せ、瀬戸内海、東京湾、大阪湾における環境基準にリンクした総量規制、第二に燐等指定物質の削減指導条項、第三に条例による自然海浜保全地区(地区内における行為許可制)制度、第四にタンカー航行規制等油濁防止規定、第五に瀬戸内計画をブレークダウンした府県計画といったものを後継法に導入するというものであった。旧法制定時と異なり、与党、経済官庁、産業界の抵抗は強く、応援団は知事市長会議のみ、旧法制定の立役者であった林自民党瀬戸内海等小委員長は大規模なヘドロ除去の事業法にすべきであるとして袂を分かつなかで、調整が進められた。総量規制は環境基準とリンクさせず、自然海浜保全地区は行為届出制に、油濁防止は努力規定にと一定の後退を余儀なくされつつ、現行の瀬戸内法が成立したのである。

瀬戸内法制定後、今日に至るまで環境庁では個別埋立案件の調整、燐につづく窒素の削減指導の検討(これは平成6年ようやく陽の目をみる)が、各種調査やデータベースの整備と併せて行われてきた。

4−3 知事市長会議と瀬戸内海環境保全協会

知事市長会議は設立後毎年首長が出席しての総会を開催、環境庁と密接な連携のもと新たな活動の方向を模索していったし、自治体の環境部局間の連絡調整機能も果たしてきた。   

昭和53年、瀬戸内法制定前夜には知事市長会議主唱のもと、自治体環境部局と各県の漁連や衛生団体とからなる社団法人瀬戸内海環境保全協会(以下単に「協会」と呼ぶ)が発足、数名ながら専従職員も置き、以後普及啓発活動や調査活動を積極的に展開していった。平成元年には産業界からも事業場単位で賛助会員として協会に参画した。近年「行政と市民と企業とのパートナーシップの形成」が重要であるという指摘がなされているが、そうした意味で協会の活動も先駆的な取り組みといえよう。

また、地球環境問題の顕在化とともに、国際的な連携が強く意識されだした。おそらく先行する「国際湖沼環境保全会議(ILEC)」の活動に刺激されたのであろうが、知事市長会議の主唱のもと、環境庁・協会も参画し「世界閉鎖性海域国際会議(EMECS)」が平成2年神戸で開催され、以降定期的に世界各地で開催されるにいたったことも特筆されよう。

さらに平成4年には知事・市長会議の主唱のもと、協会を事務局とし域内の学識経験者・研究者を結集した「瀬戸内海研究会議」を設立、毎年研究フォーラムを開催するなどユニークな活動はいまも続いている。

かくて瀬戸内法行政は或る意味では環境庁と知事市長会議、協会が三位一体で進めていくというきわめて特異なものとなっている。

5.瀬戸内法行政の環境保全上の成果

以上述べてきたように、瀬戸内法行政は地方分権を先取りしたかのような地方主導型で、瀬戸内海という場としての水環境保全というビジョンのもとで施策を展開するといった、きわめて先駆的な試みであった。しかし、それが瀬戸内海の水環境保全にどれくらい寄与貢献したかはまた別の問題である。だが、この検証は容易ではない。瀬戸内計画の目標と照らすという手法が使えない。目標自体がもともと定性的なものであり、目標年次とか達成率、進捗率とかの概念がそもそも適用しえないものだからである。

だが、環境の現状と推移を見てみると、つぎのことはいえよう。

まずは水質である。産業界からのCOD発生負荷量は激減。工場地帯の前面水域などかつての激しい汚濁水域の改善は著しいものがあるが、瀬戸内海全体の環境基準の達成率や湾灘毎のCOD平均値といった推移でみると必ずしも改善されたとはいいがたい。生活系CODの発生負荷低減が著しくないこと、いわゆる内部生産CODといった問題があるのであろう。(図6)

赤潮の発生実件数はかつての半分以下に低減している。燐の削減指導などの施策がどのていど効いたのかは赤潮発生機構が明確でないのでわからないが、一定の効果はあったと評価すべきであろう。(図7)

埋立免許面積の伸びは昭和48年度以降大きく鈍化したし、それと関連して自然海岸線延長や藻場・干潟面積の減少も鈍化したことは事実である。(図8,9,10)

ただし社会経済状況の変化もあり、全国データとの比較も困難なので、すべてを瀬戸内法行政の抑止力のせいとは必ずしもいえない。逆に鈍化したとはいえ、まったくストップしたわけでないことをもって瀬戸内法行政の無力さだけをあげつらうのも妥当でない。

埋立個別案件に関しては、港湾審の場で変更縮小させた例もいくつかあり、内々の構想検討時点で事前指導により断念せしめた例は枚挙にいとまがないうえ、結果的に容認した場合においても、人工海浜や藻場・干潟の代償整備、汚水の高度処理、緑地の整備、緩傾斜護岸工法の採用等、他の海域の類似事例にくらべて、より環境保全と親水性の確保に配慮されたものにしていることは明らかだからである。ただ、埋立の基本方針自体見直しの時期にきていることは否めない。そもそも「やむをえず認める場合」とはどんな場合なのか、環境改善のために積極的に推進する埋立もあるのでないか、埋立を認める際の代償措置を明確にすべきでないか等々の検討が望まれる。

6.瀬戸内法行政のこんごの課題

以上概括してきたように、瀬戸内法行政は理念や枠組という観点からは、今日の環境基本法=環境基本計画を先取りしたすぐれて先見的なものであったし、現実の環境の保全・復元ということに関して一定の効果があったのは事実であろうが、それが他の地域に比べて目を眩ませるほどのものかどうかについては疑問がないわけではない。

また瀬戸内計画は他省庁の施策をも取り込んだ総合的・体系的なものであるが、実際には他省庁が独自に策定した計画や施策を単に寄せ集めて修文しただけで、他省庁が瀬戸内海について法の精神に鑑みては特別の運用や重み付けを行ったとはいえないし(たとえば下水道の普及率は瀬戸内海関係府県は全国平均を大きく上回っていたが、現在はほぼ全国並)、それの担保もフォローもない。

総じて上位・先行計画と称されるものはおおむねそうしたものであるといってしまえばそれまでであるが、例えば同じ環境庁の所管である国立公園行政で瀬戸内海国立公園の管理について特別の配慮をしたという痕跡はみられない。

こんごは縦割り行政を横断的にフォローアップする体制が考えられなければならないだろう。

それは同時に自治体内部の環境部局と他部局の関係の問題でもあり、自治体間のいわば南北格差の問題でもある。埋立の基本方針を審議する過程でも、埋立原則禁止という当初の「北」の提言に対し、「南」からは大きな抵抗があり、現行のものまでトーンダウンした経緯があるように、自治体内部も自治体間も必ずしも一枚岩でなく、その結果知事市長会議や協会の活動も、だれもが賛同しうる総論レベル的なもので終わってしまうことも否めない。

また、法では住民は啓蒙の対象である。しかし住民こそがこれからの環境保全の担い手でなければならない。つまり啓蒙ではなく参加こそが求められなければならない。そうした観点からすれば、関係府県・政令指定都市以外の市町村や住民の声を瀬戸内法行政に反映させる仕組みが検討されねばならない。そのためにも情報公開のもと大規模埋立や巨大開発に関しては住民投票など直接民主主義的要素が必要でなかろうか。

本格的な環境行政が始まって四半世紀。出口対策、エンドパイプ対応では限界があることがますます明確になってきた。環境の問題は根本的には生産・生活・消費の問題である。瀬戸内計画に対応する瀬戸内海圏のユニークな社会経済計画こそが必要でなかろうか。現行瀬戸内計画はあるべき瀬戸内海のポジテイブな姿というよりは、あってはならない瀬戸内海を素描したに過ぎないと思われる。いいかえれば、汚れたキャンパスを白くすることを意図したものであった。そのキャンパスにどんな未来を描くかがこんごの課題でなかろうか。近年、自治体の企画部局を中心にした瀬戸内海ビジョンがいくつか提示されているが、環境部局においてはそれがあってはならない瀬戸内海をベースにしていないか、十分検証するとともに、相互に連携しあって積極的な提言を行っていく必要があろう。

さらに県によっては、瀬戸内法行政の影響下、景観保全条例、海域管理条例などユニークな試みが行われている。各自治体間で切磋琢磨してアイデアを出し、具現化していき、それを新たな瀬戸内計画に反映させていくというボトムアップ型の対応がこれからの地方分権の時代にますます必要となってくるであろう。

残された課題は多い。埋立に関していえば既埋立遊休地の環境復元とか廃棄物最終処分場跡地の森林化など環境創造というか誘導施策が考えられていい。海域の自浄能力の確保・回復や水生態系と生物多様性の保全、親水性確保に向けての具体的な施策が求められているし、さらに海砂採取、島や沿岸の森林伐採・採石・廃棄物処理(豊島をみよ)などにいかにウイングを広げていけるかを検討できないだろうか。

(さいごに)

昨年、環境庁では「瀬戸内海における新たな環境保全・創造施策のあり方について」審議会に諮問し検討をはじめたという。行革が云々され、地方分権や縦割り行政の打破がいわれる時代になった。いまこそ新たな発想で時代をさらに先取りした瀬戸内法行政の新たな展開に期待したい。また先行する瀬戸内法行政の経験が、他の地域での「場としての水環境保全」の新たな捉え方にいくらかでも生かされることを期待したい。

本稿執筆には環境庁瀬戸内海環境保全室、社団法人瀬戸内海環境保全協会には資料提供等多大の協力を賜った。ここに記して謝意を表する。

参考文献

  1. 川名英之:「ドキュメント日本の公害 第5巻 総合開発」、緑風出版、1990。
    本シリーズは全13巻からなる大著で、随所に瀬戸内海関係の記述があるが、本巻の第3―5章にまとまった記述がある。
  2. 二瓶博:「瀬戸内海後継法成立までの顛末記―ある行政官の手記―」瀬戸内海環境保全協会、1984。
    著者は瀬戸内法制定時の環境庁水質保全局長で、各省調整の陣頭指揮をとった。情報公開が叫ばれても、実際に法案の策定過程が明るみにでることはめったにない。こういうドキュメントこそがこんご必要である。
  3. 「瀬戸内海の環境保全―資料集―平成8年度」瀬戸内海環境保全協会、1997。
    協会では瀬戸内海の水環境と自然環境の保全に関連する多方面に渡る公的な統計資料やデータなどを収録した資料集を毎年更新・発行しており、貴重なデータブック・ハンドブックとなっている。
  4. 「協会20年 歴史を歩む」瀬戸内海環境 保全協会、1996。
  5. 久野武「瀬戸内海環境保全基本計画―十年の総括」瀬戸内海科学第1巻第1号、1989。
    著者は執筆時、環境庁瀬戸内海環境保全室長であった。