役人時代の環境小論

オウム事件と<研究>

筆者は三月末まで、ハワイの東西センターで八ケ月間過ごした。研究所といえば国環研しか知らない筆者にとって、それは新鮮な経験であった。研究所といえば高価な理化学装置が必須と思っていたのであるが、東西センターではそうした装置は一切なく、極端にいえば研究者はパソコンひとつで過ごしているのである。そこで展開されているのは研究ネットワークの構築、研究レビュー、政策研究・提言といったセカンダリーな研究なのであるが、国際的に高い評価を得ているようであった。国環研で展開されている先鋭的な環境研究は立派なものと信じているし、個々の局面では環境行政の展開に資してきたことは疑いないが、研究成果を統合し、トータルな政策提言を行うという機能は乏しかったのでなかろうか。

ところで八ケ月ぶりの日本はオウムの異様な事件で一色に染まっていた。この事件に関しては、おどろおどろしい報道ばかりが乱れ飛び、客観的な<真実>はいまだによく視えてこない面があり、もう少し経たないと正確な評価は困難な気がする。 それにしても、主観的には真摯に人生の真実を希求したはずの若者が、最後に帰依したのはおよそ粗野な俗物としか思えぬ人物であったり、有能な研究の徒だったはずの人が、空中浮揚だの地震爆弾だのといったいかがわしいものにいとも簡単に足を救われるという無惨な光景は、正視に耐えないものがある。

看過できないのは或る高名な元高官がTVなどで、「理工系の人間ばかりが集まると、あんなことになる」のような発言を繰り返していたことである。牽強付会な議論なのは論を俟たないが、既得権維持のためのいいがかりとして一笑に付すだけで終わるのでなく、他山の石としてそういう陥穽にはまる危険がないか自らを省みることもまた必要でないか。

おそらく研究者には奥深く孔を穿つような専門的な営為がどうしても必要なのだろうが、同時にそのことと社会との関係について常に捉え返すもう一つの視点を忘れてはならないのでなかろうか。その意味でも研究と行政との絶えざる対話と緊張関係が必要であろうし、それに組織的表現を与えるならば、冒頭で述べた統合機能、政策提言機能の強化とどこかでリンクしてくるのでなかろうか。

※執筆者プロフィール:

前主任研究企画官。環境研修センターのあり方検討会の報告書が出されており、それをいかに行政的に具現化していくかを考えています。